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思ってもないほめ言葉は身を滅ぼす

SNSの時代になって、自分の言葉は遠くまで届くようになった。極端な話、部屋のなかで小声で言ったひとことが、Wi-fiとやらに乗って、ブラジルのサンパウロ市まで秒で届くみたいな感じだ。こんな時代になると、人々は互いの言葉を待ち受けるようになる。建物の陰に隠れ、酔っ払いながら言った不用意な言葉をひとつ聞くと、「言った!」という感じで建物の陰から出てきて、その言葉の狩りを始める。

こうした世界では、言葉は極端にキレイになる(あるいは汚くなる)。

SNSで自分を不特定多数のひとのまえに見せるには、すでに発言力があるひとに近づくのが手っ取り早い。いや現実世界でも、お金を持っているひとは多くのひとが近づいてくるから、状況としては似たようなものかもしれないが。

ともかく、SNSではフォロワーという富を持つ人間に、ほめ言葉を使って近づくひとが後を絶たない。実際僕も一年で1通だけ、クソなDMをインフルエンサーに送ってしまった。簡単に言うと、「あなたの影響力で、僕の言説をより世界に広く紹介してください」という内容だった(もちろんここまでストレートではないですけど)。

そしてやってみて、相手から軽蔑されたのを感じた。いや何よりも、自分で自分を軽蔑した。以来、僕はDMはやめた。ひとは間違いから学ばないといけない。僕はもうDMは送らない。そんなものは送る必要がないのだ。

SNSを見ていると、よくかすかすのほめ言葉を目にする。かっすかすの、真夏の道路の側溝に落ちているスポンジみたいな、水分が1ミリも残されていないほめ言葉だ。こうしたほめ言葉を、影響力のあるひとはリツイートする。彼らはほめ言葉がかすかすであることを知っている。しかしそれでもべつに構わないのだ。

けれど実際によく考えてみると、思ってもないほめ言葉は身を滅ぼす。以前他人をファボしに行って、自分の文章にアクセスする人間を増やす、という行為をしていた大学生(らしき)少年がいた。この子はコメント欄に好意的発言を書き込んだり、なんだかいろいろしていた。そしていま、もうSNS世界にいない。

彼が頻繁にこの行動を繰り返していたとき、僕は「これはかなり危険だ」と思った。なにが危険かというと、彼は思ってもないほめ言葉を繰り返すことで、次第に自己嫌悪になっていっているのがわかったからだ。

僕は彼のコメントに対して、「こうした活動をするのは危険だよ。君のなかで分裂する感覚があるはずだ」なんてことを言うべきかとも思った。しかし僕のクソなDMにインフルエンサーが何も言わなかったのと同様、僕も相手に忠告はしない。ただ黙っている。いや、お礼すらいちおう述べておく。

ほめ言葉はいいものだ。それはひとを喜ばせ、その日一日を輝かせる。しかしポイントは、ほんとにそう思った時だけ言うことだろう。ほんとは思っていないが、自分がなにか得る目的があってほめ始めると、どこかで「ん?」という感覚が宿るはずである。

自分はほめるという、SNS社会でいい行為をした。なのに気分が悪い。気分はどんどん悪くなる。ついには自分に憎しみを持つようになる。自分が本来的自分から乖離してしまい、その分裂して外に見せている自分と、本来の自分とのギャップに耐えられなくなるのだ。

実際現実の世界でも、よく思ってもないほめ言葉を口にだすひとはいる。その言葉はぺらっぺらで、雑居ビルの雨どいについた剥がれかけた塗装みたいだ。僕はこのてのことを頭で考えて小癪にやっているひとを見ると、自然と距離を取ってしまう。なぜなら相手は自分で自分のことを憎んでいるので(いくらかは)、関わらないほうが身のためだからだ。

誰かをほめて、何かを得ようとする行為。これはひとの精神を崩壊へといざなう。甘い香りに誘われて、多くのひとがこの方法に手を染める。そして日々少しずつ、地面が断層を少しずつ動かすようにして、そのひとのなかで乖離が進んでゆく。

だれかをほめるとき、何かをほめるときは、それ自体で完結しないと意味がない。その素直に「いい」と思った気持ちそのもののポジティブさ。それだけで声を喉から産む必要がある。もしそうしたほめ言葉だけを、週に3、4回言えるようになると、それは人生を豊かにするだろう。

反対に、それ自体で完結していないほめ言葉を日々口にだし始めると、人生は徐々に破滅に至ってしまう。

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