成長を支えること

なんとなく、行なっていることで相手に対し支援した気分になっている?場面が多い。

支援という漢字の意味は「(他者に対し)力を貸して助けること」と書かれていました。英語だと「support」と表され、支援による結果は、その当事者のものという事のようです。
ということは、全ての工程を他者が代理し、結果だけを与えるのは支援とは言えないですね。

「子どもの手の上から大人が手を掴み、素晴らしいイラストを描く」
これは絵を描く子どもを支援していることになるのでしょうか。
せめて最後の一筆だけでも、子ども自身の力加減で描くことができるように周囲の大人が準備することが支援ではないかと考えます。

スイッチを押させることで「支援した」気分になっているシーン。
「スイッチ押してー」と言いながら、周囲の大人がどんどん子どもの手にスイッチを近づける。または大人が無理やり手を取り、上から押させるシーン。
機会を与えるという意味で、その方法が間違いであるとは考えませんが、それを繰り返したところで、子どもが成長するのか疑問を感じています。
周囲は、子どもに対し、スイッチ操作をすることで起こる内容を理解できるように手立てを行い、自分で操作しようと思える働きかけや興味を引き出す関わり、最後は子どもの力で操作できる環境づくりを行っているのでしょうか。

大人が手を貸さないと描けない、スイッチを押せない、だから「一緒に」楽しむ。
このことに、楽しいのは大人だけ、という事が起きていないか?
子どもの発達や成長を支援するということを生業とするならば、その関わりは誰のためなのか?を考えられる人であって欲しい。

子どもの支援を行うためのか
事業の運営を行うためのか
目的が違うのであれば、当然日々の内容も違いますね。ただそれだけのことなんだと理解しているのですが、内容そっちのけでも利益が入るシステムだからこそ、なんだか意識が違う人が多く集まるのだなあと、最近虚しく感じる日々です。

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