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ある日、ヨガ指導者養成講座中に受講生から質問が来た。
「ヨガの考え方を取り入れ、鍛錬を進めていくと、社会との関係性が難しくなるのでは?」
そう言えば、僕もそのことを悩んだ経験があり、自身を現在「social yogi/ソーシャルヨギー」と名乗っている。この「social yogi/ソーシャルヨギー」は僕の作った造語だ。

social/ソーシャル =社会的、社会性
yogi/ヨギー=社会から離れヨガを行ずる者

一見、相反する二つの言葉の組み合わせに感じるかもしれない。ヨガという言葉の捉え方は千差万別だが、『ヨーガスートラ』にある「カイヴァリア/真我独存」を求めていくこととは、「社会を捨て、自己に深く入り込むこと」というイメージを僕は持ってしまう。

一方、社会性とは何か? 僕の場合、経験からくる悪い癖で、真っ先に出てくるのは「組織や統治という観点で、人々をコントロールしやすくするシステム」という側面だ。もちろんこの言葉に、そういった意味合いもゼロではないと思うが、抽象度が高く難しい言葉だ。

「難題は分解せよ」。僕の好きな哲学者の名言。彼の助言を借りて、「社会性」がどんな意味を持つか、今回も分解して考えてみたい。

「社会性」という言葉には、以下の意味が内包されているのではないだろうか。
① 「一般的」と言われるように、広く通ずること。
② 集団で生活しようとする人間の持つ本能。
③ 他者とうまく関係していく能力。

では僕は、ヨガをライフワークに取り入れたことで、この社会性のどこに違和感を感じたのだろう。

まずは①だろう。僕は、ヨガは多様性や個人を尊重する思想を含むと捉えている。そんな中「一般的には」、「普通は」という、マジョリティ側からは当たり前とされる価値観を、社会性といった言葉でパッケージングし、ステレオタイプとして押しつけられた時、違和感を感じるのではないか。
僕は今、「当たり前」という言葉ほどあいまいな概念はないと思うので、そこまで違和感を感じてはいないが…。

②について。これは、違和感を感じるのとは真逆で、大切なことだと思う。概念を分解することによって見えてきた、いい要素だ。僕は、釈迦の悟りのコアの部分である「縁起思想」に賛同している。人は、人との関係性において、自我を形成している。「人は一人では生きていけない」という言葉の本質がここにあると思う。

最後に③は、ヨガ実践者が磨いている能力だと考える。例えば、他者との関係において、問題は、二元的なモノの捉え方で起きる認識の不一致だと仮定してみよう。ヨガはその二元的な見方を多角的に変えたり、時には視座を上げることで、問題を抽象化する視点を作る。起きている事象自体の形を変えて解決するのではなく、事象と調和するポイントを注意深く探していくということ。

それは、僕達が身近に実践するアーサナにもあり、目指す状態として、『ヨーガスートラ』2-48に「アーサナが完成すれば、以後二元性に乱されることはない」と記されている。つまり、これは相反する力のバランスを取ることだと僕は思う。僕達は、そのために日々マットの上で集中を研ぎ澄まし、その力を磨いていると言っても過言ではない。

ここまでで、「社会性」という抽象的な言葉が具体的になってきたのではないだろうか。ただ、ヨガを探求すればするほど、①で挙げたような、社会システムとの解離はやはり生まれるのかもしれない。また、捉え方を変えることで、社会システムの問題も見えてきたのではないだろうか? もちろん、どんなに崇高なシステムであっても、絶対や完璧なものはない。現代のヨガ行者は、俗世を離れたり、社会システムに対してアンチテーゼを掲げるわけでもなく、可視化できた社会問題を調和へと導くような存在になれるのではないかと僕は考える。

ヨガとは、自己との向き合いだ。
自己と向き合うのは、とても大変なこと。自分の闇、弱いところ、嫌なところとも向き合うのだから。故に、それをしない人のほうが多いのだろう…。
ヨガ実践者は、そんな大変なことに向き合っている。
マットの上では一生懸命に集中力を鍛錬し、結節点を観る力を養っている。そのベクトルを時に外へ向けたり、自分を取り巻く世界として見ることで、世の中にあるアンバランスなエネルギーを調和していくこともできるだろう。

これが僕の言う「social yogi/ソーシャルヨギー」だ。


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