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車窓

 時雨川は電車の中から田園風景をぼんやり眺めていた。電車は同じような田んぼと山並みをシュルシュルと通り過ぎていく。なので彼は本当に移動しているのかわからなかった。目の前の景色と時間の感覚が麻痺していた。ただ己はどこかに向かっている。そのたどり着く場所もわかっている。だが…。
 ――ねえ、聞いてる?
 —―ああ、何の話だっけ?
 —―また考え事?
 —―いや、ぼんやりしてた。
 —―まあ、いいわ。それでね…。
 月嶋美津子は話を続けた。温泉の効能だの、その地の名物だの。彼はそうしたものに興味があるような返事をしながら相槌を打っていた。窓の外は相変わらず田んぼ。いつまでこの風景が続くのだろう。
 だがこの旅行を提案したのは時雨川だった。妻には出張と伝えてある。美津子はいわゆる不倫相手。同じ会社の同僚で8歳年上である。時雨川が転職して半年ほどで関係を持つようになった。その時彼は38歳で、妻も子供もいる身分であった。それは美津子も同じで彼女には夫も子供もいる。彼女は会社の設立当時から働いていてお局的な立場にあった。彼女に気に入られた時雨川は異例の速さで出世し、4年後には部長になった。それが彼にとって分相応の地位かどうかはわからなかった。周りの視線も痛かった。だが彼は年齢的な問題もありこれ以上転職できないし、何より家族を養わなければならない。そのためこの幸運を手放すわけにはいかなかった。安月給では子供を大学に通わせてやることもできない。妻は彼の出世を喜び、少し冷めていた関係も元通りになった。
 出世するにつれて美津子とは「出張」と称して彼女の別荘に行ったり、「営業」と称してホテルに行く機会が増えていった。彼女は情熱的で時雨川を求めた。時雨川は戸惑いを抱えながらそれに応じたが、底なし沼にハマるように彼女の肉体に溺れた。だが行為の後には必ず罪悪感が伴った。何故彼女は平然としていられるのだろう。彼にはそれが不可解であった。彼女の夫に何の感情も抱いていないのか?バレたらどうするのか?色々と考えたりしたのではあるが、結局彼自身状況は同じなのでそれを彼女に問うようなことはしなかった。
 —―それでね、温泉って言っても種類がたくさんあって、それぞれ効能が違うの。
 —―ふーん、そうなんだ。それで今回行く温泉はどんなものなの?
 —―調べてみると硫黄泉質だそうよ。温泉はどれも肌にいいらしいけど、硫黄泉質は…。
 彼女のネットのコピペが始まる。温泉の泉質とかどうでもいい。そんなものに一日入ったところで劇的に変わるわけでもない。傍から見れば夫婦に見えるだろう。だがこれは不倫なのである。
 —―また上の空。
 —―いや、そんなんじゃないよ。このところ少し疲れっぽくて。
 ——昔から嘘が下手ね。
 —―どうして嘘だって…。
 —―わかるの。嘘って。いろんな人を見てきたけど邦彦君が一番下手。そこが可愛いんだけど。けど誘ったのはそっちでしょ?
 —―ああ。
 —―どうせ妻が、子どもがって考えているの?
 —―電車の中でやめてくれよ。他の人が聞いているかもしれないし。
 —―いいじゃない。別に。他人の事なんてすぐどうでもいいじゃない。私と邦彦君の問題よ。
 時雨川は周りを見渡す。イヤホンをしているサラリーマンや外国人観光客ばかりだった。
 —―「秘密を知られないようにするには、秘密などないふりをするのがいちばん」って言葉をどこかで聞いてなるほどって思ったの。だからここで大声で話したって別にいいの。恥ずかしいことも恥ずかしいと思わなければいい。悪いことも悪くないと思えばいい。
 —―そんな。
 —―それに気持ちの切り替えも大事よ。不安になって旅行が楽しめないのは意味ないわよ。結果が同じなら楽しまないとね。
 —―………。ああ、そうだな。
 —―もう、あの時は積極的なのに。
 美津子は意地悪そうな笑みを浮かべた。誘惑するような、挑発的な表情を見て時雨川はぞくぞくとした。その時で彼女から離れられない理由が、家族や仕事ではないことがわかった。そして己の利己的な、そして肉欲的な願望であることがわかった。先ほどまで妻や息子の顔を思い浮かべていたが、目の前の美津子しか見えなくなっていた。
 —―ああ、本当にその通りだ。俺が馬鹿だったよ。それで温泉がなんだって?向こうで何食べようか。お腹もすいてきたね。
 「次は○○温泉。次は○○温泉。」アナウンスが鳴る。目的地はもうすぐだ。
 —―本当に馬鹿ね。
 美津子のつぶやきは時雨川に聞こえなかった。(終)



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