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ブラウン管と坂本九とSukiyakiと


【SHORT STORY】

『父のつくるSukiyakiはいつもちょっぴり塩辛かった』

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昭和30年代黎明期のテレビのローカル局に勤め、気むずかしく、愚直なほど仕事一筋だった父。

子どもの時分から、家族揃って夕餉を囲んだ記憶はとても少ない。

毎朝早く仕事に出かけ深夜に帰宅し、土日もなく働きづめであったから、家はいつも母と私とまだ赤ん坊の弟だけだった。

仕事熱心な父はたまの休日も一日中居間で一人、ブラウン管を見つめていた。

新聞テレビ欄を睨みながら、自局と他局の番組チェックをするためである。

また、そうでなければ書斎にこもり、翌週の番組原稿や編成表を書いていた。

だから、父とは公園でキャッチボールをした想い出もない。

家族の中心にはいつも、テレビがあった。

私は子ども心にすこし、寂しい気持ちでいた。

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そんな父であったが、日曜夜6時半からの『シャボン玉ホリデー』(日テレ系列)を、たまに家族揃って観るときがあった。

伊東ゆかり、奥村チヨ、いしだあゆみ。

晩酌がてら贔屓の歌手がブラウン管に登場すると、ふだん気むずかしい父から鼻歌がでた。

ザ・ピーナッツとクレイジーキャッツによるコントの終盤、植木等の「お呼びでない。。」のセリフに揃って大笑いした。

笑いの提供者がテレビであったにせよ、ふだん父の笑顔をほとんど見ることは無かったから、母も私も素直に嬉しかった。

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ある日曜の昼さがり。

いつものように書斎にいた父が母へ、夕餉に「すき焼き」をリクエストした。

幼稚園年長組の頃だったが、この日のことはよく憶えている。

こうして牛肉としらたきを買いに行かされた私にとって、これが「はじめてのお使い」となったからだ。

「おとうさんがスキヤキをたべたいから、おにくと、しらたきをください。」

あの日の私は、ちゃんと言えただろうか。

千円札を半ズボンポケットの中で握りしめながら、それでも母から命ぜられた「はじめてのお使い」を一所懸命やり遂げたように思う。

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あの日。

特別な祝いごともないのになぜ、急に「すき焼き」を父は所望したのだろうか?

その理由を、最近になって思い至った。

おそらく父は、書斎で当日の「シャボン玉」のシナリオ原稿を読み、ゲストの坂本九が『上を向いて歩こう』を唄うことを事前に知ったのではないだろうか?

作詞:永六輔
作曲:中村八大
『上を向いて歩こう』

♪上を向いて歩こう
涙がこぼれないように

♪思い出す 春の日
一人ぼっちの夜。。

この歌を生涯、父は愛した。

機嫌の良いときは車を走らせながら、あるときは風呂場で口ずさんだ。

私はそれを聞くのが好きだった。

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坂本九『上を向いて歩こう』(英題: Sukiyaki)は、私が生まれた1963年、全米『billboard誌』でアジア圏歌手唯一となるシングル週間1位・年間10位を獲得。

そして現在まで、世界中で多くのカバー曲が生まれている。

あの日、父は家族ですき焼きをつつきながら坂本九が唄うタイミングで、この小さな奇跡を披露したかったのではないだろうか?

さらにあの時、ちょうど母のおなかの中には6つ違いの三男が宿っていたはずで、これを家族全員で祝いたかったのではないだろうか?

♪幸せは雲の上に
♪幸せは空の上に

父はその後、制作局・報道局・編成局のあいだを幾度も行き来し、定年退職まで“現場一筋”のテレビマン人生をおくった。

愛情表現がとても下手だった父。

しかし父は父なりに精一杯、そのテレビを通じて、家族団欒をつむごうと努力していたのかも知れない。