「面白い」を使わない読書感想文 #2『うしろめたさの人類学』
ずっと引っかかっていた。「貧困で苦しむアフリカの子どもたち」にワクチンや給食を支援するための募金を呼び掛けるコマーシャルが流れたと思ったら、次の瞬間にはテレビタレントが焼きたてのピザを頬張ったりカラフルなかき氷を見て嬉々としている。まあ、濁った水を飲料用として使わざるを得ない国の人たちの現状より、動物の赤ちゃんのおもしろハプニングとか巨大なローストビーフ丼とか見てるほうが楽しいもんな。わかるよ。わかるんだけど、これでいいのかな、とも思っていた。そんなとりとめもないもやもやに10年越しで形を与えてくれたのが『うしろめたさの人類学』だ。
第一章「経済」では、著者がエチオピアで出会った物乞いのことが書かれている。身体の弱った老婆が街頭に立ち、ただ黙って腕を差し出す。お金を受け取った老婆はお礼を言うわけでもなく、それどころかお金をもらって当然と言わんばかりの態度でまた街頭に立ち、腕を差し出す。著者は「いままで、この老婆が物乞いに失敗したのを見たことがない」と述べている。わたしは読んでいて圧倒されると同時に、大学時代に出会った物乞いのことを思い出した。大学に通うお決まりのコースを歩いていたら、薄汚れた中年男性が道行く人たちに物乞いをしていた。悉く無視されていた物乞いはわたしに近づいて、黒ずんだ手をお椀のようにしてわたしに差し出した。わたしは思わず立ち止まってしまい、その黒ずんだ手をじっと見ていた。いろいろな考えが頭の中を逡巡し、結局わたしは何もせず立ち去った。男性の悲痛な叫びを背中で聞いたのをいまだに覚えている。その男性を見たのはその一回きりだ。キャンパスは比較的静かな住宅地の中にあり、高校や団地とも近かったので誰かが通報でもしたのだろうか....そんなことを思い出していた。どうすればよかったのかと今でも考えるし、わたし一人の行動で事が大きく変わるはずもないか、とも思う。
「商品交換のモードが共感を抑圧し、面倒な贈与と対価のない不完全な交換を回避する便法となる。ぼくらはその「きまり」に従っただけでなにも悪くない。そう自分を納得させている」
おそらく、当時のわたしもその「きまり」に従ったのだろう。従って、自分を納得させて、そして忘れた。この本を読むまで、その物乞いの話なんて一瞬たりとも思い出さなかった。わたしは両親から十分すぎる仕送りをもらい、設備の整った広くて清潔なキャンパスに通い続け、休学も留年もなく大学を卒業した。
「商品交換のモードはそこに生じた思いや感情を「なかったこと」にする。多くの日本人はそれに慣れ切っている」
10代の頃、ネット上のクリック募金をはじめた。1日1回クリックするだけで1円が募金できて、自分の懐が痛むこともない。お金はなかったけれどインターネットが自由に使える環境に置かれていたわたしは、いろんなサイトのクリック募金を片っ端からブックマークして毎日巡回した。しかし、受験や部活の忙しさでクリックする頻度が減り、スマートフォンを手にしてからはパソコン自体立ち上げることも少なくなって、いつの間にかやめてしまった。やめたことにすら気づかないくらいの最後だった。当時のわたしには妙な正義感があり、助けてあげたい、困っている人を見過ごせない、というような思いのほうが強かった(たぶん)。そういうものって長くは続かないようにできていて、どこかで「貧しい人たちのために行動する自分」に満足していたのだろう。それから震災があって鬱病になって、世界の見方も少しずつ変容していった。つい最近東京に行く機会があり、友人と待ち合わせしている駅前に着くと、先日の台風15号で被災した千葉への募金を呼び掛ける団体がいた。たくさんの人が素通りする中で財布を開くのは緊張したけれど、少額ながら募金箱に入れることができた。強い正義感に駆られたわけでもないし、言ってしまえば千葉県民が困っているとてわたしが困るわけでもない。しかし、わたしは財布から小銭を取り出し、募金箱に入れた。
「それは「貧しい人のために」とか、「助けたい」という気持ちからではない。あくまでも自分が彼らより安定した生活を享受できているという、圧倒的な格差への「うしろめたさ」でしかない」
「うしろめたさ」。そうだ、「うしろめたさ」だ。すべてのピースがあるべき場所に収まっていくような、そんな気持ちよさがあった。そうかあ、うしろめたいのか、なるほど。わたしの世界にまた新しい「形」がつくられる。ああ、すごい。そういうことなんだ。台風が近づく静けさの中で、手の中のミルクティーに沈んだタピオカが揺れていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?