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職場の『プラスチック』な付き合い

职场“塑料友谊”  青丝

読者 2022・1 p44

 国外のある方が創作した一枚の絵がある。
広大な海の真ん中に無数の職業のユニフォームを着た男女が、立つのがやっとな、小さな一区画の陸地にいるが、彼らは互いに関わりはない。この絵は、職場の人間関係の一種のメタファーで、ルソーは“無作法な社交”と言った。
表面から見ると、人々の関係は緊密だが、実際はそれぞれは貧弱な孤島なのである。

 職場の情誼(じょうぎ)は、人間関係中、もっとも複雑で奇妙なものである。誰もがこの関係を回避する方法を知らない上、自分で付き合う人を選べないからだ。この種の競争が開放された環境の中で、凝集した情であり、まるで“ハウス オブ カード”(米国のドラマシリーズ)のようでもある。

しかし、スタンフォード大学のジェニー・オデルは、『How to Do Nothing』の中で、現代人の生活は交際と関係継続の文化では、人と打ち解けられない人は失敗者、あるいは感情指数が低いとみなされる、と述べた。

決して色あせない花同様の“プラスチックの付き合い”は人々の現実の差異を包括している。

 職場学は今や一種の学問となり、書店にはコーナーがある。そこには様々な種類の職場の生存方法が書かれたベストセラーとして置かれ、
それらは無数の成功と失敗の事例が用いられている。要約すると、教訓を学び、プラスチック製の友情を維持する方法を教える、職場のソーシャル・モデルの最低限として。

ネットのプラットフォーム上では様々な短編動画があり、メインは声もよく情感たっぷりな朗読と、世間の戒めの言葉、機知に富んだ言葉、ものごとを完璧にし過ぎる必要はないと勧め、これでも職場ではできる人になれる。

 しかし、もし同じ台本上に、すべての人を入れられると考えるなら、あまりにも職場を簡単視している。さまざまな人が職場にいると言うのは、ボードゲームのサイコロを振ると、サイコロを自分がコントロールできないのと同じで、本人がどれほど努力をしようと、その想いとは無縁な結果に遭遇してしまうのだ。北宋時代、劉攽は職場に入ったばかりのころ、同僚の蔡確をからかい、みなの前で彼のあだ名吊るしハマグリ呼んだ。彼は福建人で、福建省ではハマグリを貝菜と呼ぶ。反対から蔡確を読むと同じ読みになるのだ。(中国語では)

蔡確は恨みを抱いたが、後輩として反抗することが出来ず、のちに宰相になったとき、その恨みを晴らした。

   ある心理学者が、ウォール街の金融界のリーダーはサイコパス指数で高得点、EQは平均以下だと言うことに気づいた。つまり、根っからの慈善家でない人のほうが、職場で高い地位に就くことが多いのだ。

清代末期、袁世凱と張謇は、準軍隊の名将だった呉昌清に仕えていた。 張謇は袁世凱より6歳年上で、科挙の合格者だった。袁世凱は張謇と会うときはいつも自分は学生だと言い、張謇を学者と敬った。
のちに袁世凱は新たな役職山東巡撫を作った際は、張謇をさんづけで呼び、自分を後輩とした。そして、さらに北京、天津、河北と河南の大部分、山東の一部を含む北京直轄領とする総督を作った際は張謇を兄と呼び、自分を愚弟と言い始めた。

 張謇はこの“プラスチックな付き合い”に耐えられず、手紙で袁世凱を風刺した。大まかな意味は:あなたさまが毎度昇官されるたび、私の降格し、今後あなたがもし昇官された場合、私は何と呼称されるのでしょうか。

職場の“力に長けた人たち”とのプラチックな友情を維持するのは容易ではない。自分の存在は、他の人たちが目標を達成するための足がかりにすぎないからだ。

ソローは早くから、人々があまりにも混雑した生活を送ると、互いの価値を理解できなくなると示唆していた。

プラスチック製の友情は、職場の熾烈な競争において、すべての現代人が背負わなければならない代償かもしれない。

花树摘自《中国新闻周刊》2021年第41期





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