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「窓の魚」を読んで

「作家は冒頭の書き出しを大事にする」という言葉をよく耳にすることがあるだろう。
名作と呼ばれる本ほど、作家は冒頭にその本のテーマや主張したいことを持ってくることが多い。
窓の魚はその中でも、作家が主張したいことを冒頭で丁寧に書き出した本である。逆を言えば冒頭の意味を理解しなければ、何をテーマに書いたかが分からないようになっている。なぜなら、この本はミステリー要素がかなり強く、大多数の人はこの本を恋愛を絡めたミステリー小説として納得している人が多いからだ。
別にその解釈でも構わないとは思っている。本なんて惹かれる部分が人によって違うのは当たり前だ。だが、あまりにもミステリー調の恋愛小説だと認識した書評や感想しか見当たらないので、ここで自分なりに解釈した窓の魚の書評を書こうと思った。
もし、窓の魚が好きな人はまた新しいこの本の捉え方として、この書評を読んでほしい。


先述した通り、作家は冒頭にその本のテーマなどを巧みに隠しながら書くことが多い。故に冒頭は本の中でもかなり重要なことが書いてあるといって過言ではない。
では、窓の魚はどういう冒頭かというと、

バスを降りた途端、細い風が、耳の付け根を怖がるように撫でていった。あまりにもささやかで、頼りない。始まったばかりの小さな川から吹いてくるからだろうか。川は山の緑を映してゆらゆら細く、若い女の静脈のように見える。紅葉にはまだ早かったが、この褪せた緑の方が、私は絢爛な紅葉よりも、きっと好きだ。目に乱暴に飛び込んでくるのではなく、目をつむった後にじわっと思い出すような、深い緑である。
「空気が違うなぁ!」私の隣で、アキオが目を細め、そう言う。

文字を、そのままの文字で自分の中で描き出して、実際にその場にいることを想像してほしい。そして、文字を一つ一つほぐして理解してみてほしい。

「細い風」「怖がるように撫でて」「ささやかで頼りない」「始まったばかり」「若い女の静脈」「じわっと思い出す」

この言葉たちから連想されるものは何か。
それは、「弱弱しい」というイメージ。

バスで山を登ってきたであろう場所なのに、「細い風」が「怖がるように撫でて」、「始まったばかり」の川は「若い女の静脈」のように、そして褪せた緑を「じわっと思い出す」。

一瞬で吹き込む強い風でなければ、動脈ではなく若い女の静脈、目に乱暴に飛び込んでくる絢爛な紅葉ではなく、じわっと思い出すような褪せた緑…

そこでこの本は「弱さ」について書いている本ってことに気が付く。
そして、それを念頭に読んでいくと、この本が全く別物になって読者に絡みついてくる。

今この書評を書いている時でさえ、全く別の一面があることに気が付いて興奮しているところだ。まあ勝手に興奮している自分は置いてけぼりにしていこう。

この本はナツ、トウヤマ、ハルナ、アキオを使って人の弱さというものを書いた小説なんだと自分の中で理解した。
それぞれが違う人の弱さを抱えており、それを抱えたまま窓の外で泳ぐ魚みたいに死んでいくのか、窓の外の魚から抜け出して生きていくのか、を主なテーマにしていると考えた。


では、一人ずつ、丁寧に述べていく。

まず、トウヤマから。
トウヤマはおそらく由緒正しき家柄で育った長男坊で、先代から続く酒蔵を継がせるために祖母から厳しく育てられている。祖母自身は夫を早くに亡くし、家業である酒蔵の経営を担うようになり、その才覚から安定した経営を実現させたが、それよりも飄々として、凛としたその佇まい、まるで人魚のような圧倒的な美しさからくる周りからの尊敬から村からも一目置かれる存在だった。
そんな祖母からトウヤマは厳しく育てられた。友人と学校の帰り道に食べたアイスでベトベトになった手を、祖母は痛みによって叱りつけた。
厳しい教育とは裏腹に、一つ上の従兄弟には大変甘い態度で接しており、トウヤマにとっては自分は祖母から愛されていない存在なんだと意識するようになる。
親からの愛情の欠乏、それにひどい渇きを覚えながら過ごすトウヤマ。

そんなある日事件が起こる。
例年に比べ暑く、冷房機器のない村で、みんなが少しずつ狂っていく。そんな中、村の一人の男がボウガンで雀を撃ち落とそうとして、その矢が誤って従兄弟を打ち抜いてしまった。崩れ落ちる従兄弟の頭、村の見知った顔の男共もトウヤマには目もくれず、男の凶器を共有しあって興奮していた。母が駆けつけて従兄弟の死体を見せないように抱きしめていたが、母から流れる汗を不快に思っていると、向こうで駆け寄ってくる祖母を見つけ、思わず体を固くするが、そこで予想に反した事が起こった。
祖母は母を払いのけ、トウヤマを抱きしめた。そして、「良かった」「良かった、あんたじゃなくて」と誰にも聞こえない声で言った。

そこで、トウヤマは祖母から愛されていることを知り、汗でへばりついて乱れた髪や、浴衣から伸びる白い足を見て性的興奮を覚えた。
そして、村の人からは腫物を扱うようにされるが、トウヤマ自身は、``目の前で従兄弟を失くした可哀想な子‘‘ではなく、``祖母に性的興奮を覚えて痛いほど祖母を求めている自分をみんなが笑っている‘‘と感じてしまい、村を16歳の時に出ていった。

トウヤマの持っている弱さとは、祖母を愛している自分、熟女が好きな自分、そしてそれを異常だと思ってしまう、そんな弱さを抱えている。

いわゆる自分の性癖に対する拒絶。
その弱さについて描かれている。


次は、ハルナである。

結論から言ってしまえば、自分の容姿に対するコンプレックス。その弱さについて語られている。

実家はかなり貧乏だったのであろう。それに母親のみすぼらしく働く姿、頬の茶色いシミ、だらしなく下がった目尻や笑った時に揺れる顎、頬をすぼめてカサカサの唇で煙草を吸う姿。そんな姿を見て、嫌悪感を感じるハルナ。
それからは自分はああならないように、お金を稼いで、高級品を買い漁り、トレンドである色のために自分の髪色を変え、顔も整形し、豊胸もして、どんどん綺麗になっていく。でも満たされない、何かが違う、足りない。

そんなハルナだからこそ、ナツのことを嫌いに思うのは至極当然な感情である。黒い艶やかな髪、最低限の化粧、どこか物憂げさをたたえた目、その全てがナツの内側から漂ってきて身にまとっている。まさしく、ハルナが心の底から望んでいるものを兼ね備えている人物だからだ。

誰もが持つであろう、容姿に対するコンプレックス、消費依存になってしまった人の心の渇き。
それこそがハルナが持っている弱さである。


ここまでトウヤマとハルナの弱さについての考えを語ってきた。
端的に言えば、トウヤマは自分の内面に対する弱さ、ハルナは自分の外見に対する弱さ。
しかし、この二人の弱さに関しては特に問題はないと思っている。誰もが少なからず持っている弱さであるし、誰でも悩んだことのある弱さであろう。
作者である西さんもそう感じている気がする。
トウヤマは、最終的には誰にも言えずにいた自分の性癖をアキオに全て話そうと心に決めているし、ハルナはありのままの自分の姿を愛してくれた母親を思い出し、電話をかけて泣き晴らす。二人ともこの先は少し前に進みだせるように締めくくっている。


問題なのはアキオ、ナツの二人なのである。


まずはナツから。

ナツはかなり捉えようのない人物として描かれている。化粧気のない顔、少年のような体つき、濁った目。作中でナツぐらいだろう。自分の考え、思っていることがほとんど描かれないのは。
そういった情報を搔き集めて見えてくる人物像は、自分の意見がない、頼りない、ふわふわしている、そんな印象だ。そしておそらくナツはそれを意図して行っていない。
女性がダメ男を好きになる人が多いように、男性が守ってあげたくなるような存在だ。ナツは自分がいないとダメなんだ、という感情持たずにはいられない存在として描かれている気がする。

先述した通りそういった振る舞いをナツ自身は意図して行っていない。この守ってあげたくなるような振る舞い(なぜそう見えるのかは後で述べるが)自体はそこまで問題にはならない。
問題なのは、ナツが自分が弱い存在だということに安住していることだ。
性器を丸出しにしたのっぺらぼうの男の描写のように、圧倒的な何かに支配されて、服従したいのであろう。
たまに思い出したように語る朧げな記憶もそうだ。いつの間にか自分の部屋に山積みにされた煙草の吸殻、きっと行きずりの男との性交渉後の描写であろう。自分がどんどん堕ちていくこと、損なわれていくことに惹かれてしまうのであろう。
これを読んでいる人の周りにも似たような友達が少なからずいるだろう。

「でも私ってこういう人だから」
「俺はダメなやつなんだ」

自分はこういう人間だからしょうがない、と決めつけて改善しようとしない人。
ナツはそういう人たちの象徴として描かれている。


一番やばいのはアキオである。
こいつは本当にヤバイ。ただ同情に似た感情も持ち合わせてしまう。

アキオは胸に大きな傷があることから、きっと小さい頃に事故にでもあったのであろう。その傷が故に、小学校にあがっても体育は見学し、遊びである鬼ごっこでさえも先生から「アキオ君は捕まっても鬼にしないであげて」クラスの友達に忠告されてしまう始末。そんな彼はずっと孤独であった。

そんなある日、一つの出来事でとある興奮を覚えてしまう。
それは飼い犬のミルが殺されてしまうあの日の夜だ。
元々元気だったミルは、当たり前のことだが老いていくと同時に足腰が弱くなり、糞尿は垂れ流し、白内障でろくに見えない目で体のあちこちを犬小屋にぶつけていた。家族はそんなミルを疎ましく思っていたが、アキオはそんなミルを言いようのない愛情で愛でていた。
そんなある日の夜、ふと目を覚まし窓から庭を見てみると、虚弱体質の母親が犬小屋の前に立っていた。そこからの描写は読んだ通り、母親は毒が入った肉なのか、大量の玉ねぎでも入れた肉を無理やり食わせてミルを殺した。

本来悲しみに暮れて母親を憎むような展開にでもなりそうな描写で、アキオはこれまでにない幸福感を感じ、ミルに対して抱いた甘い愛情にしびれていた。そしてミルの死骸を見て、美しささえ感じてしまう。

ここまでの描写を読んで、想像できるアキオの弱さは、「自分より弱い存在がいると安心する」弱さだ。
自分が弱い存在であるが故に、自分より更に弱い存在と出会うと、自分の存在意義でも見つけ出したように生き生きとしてしまう。

でも、よく考えるとこの弱さを持った人は意外と多い。
部下をいびり倒す役立たずな上司、妻へ威張り散らかすくそな旦那、自分より知識のない人を集めて上澄みだけを掬ったような浅い知識を引け散らかすバカ、この世界は意外とそういう人で溢れている。
飛躍するが、きっとそう人達の行き過ぎた結末が、動物虐待する人やDVをする夫や妻、ネグレクト、麻原彰晃のような教祖になるのであろう。

これだけならそこまでやばくないのだが、アキオは彼女であるナツにクスリを飲ませて記憶を飛ばしている。
かなりヤバめである。
意図的に自分より弱い存在を作り、もう俺がいなきゃいけない存在を意図的に作り出しているのだ。自分より弱い存在を作り出すことによって安心感と優越感、幸福感を味わっている。


アキオとナツ、この二人の問題はそれぞれの弱さが絡み合ってしまっていることだ。
需要と供給、お互いがマッチしていて沼のように抜け出せなくなっている。ナツは抜け出そうとしてみているかもしれないが、アキオがそれを許さない。
作者である西さんはこの二人の弱さに警鐘を鳴らしている。


では、この二人の行く末はどこにあるのか、それは池に浮かぶ死体であり、窓の魚たちなのである。
ここでようやくタイトルの意味が回収される。
そもそも温泉の作りがかなり異様である。内風呂の湯舟が一枚のガラスを隔てて、そのまま外の池の中に繋がっている。湯の高さより少し高い池の水面。そして池の中を泳ぐ鯉。

アキオは皆とは一面ガラス張りの四角い空間で隔たれたような感覚を抱き、ナツは生きているのか死んでいるのか分からない生気のない顔、旅館で会った老夫婦に「死の気配」を纏わせることで己を輝かせていると思わせるような陰りのある趣、それらが池を泳ぐ鯉と池に浮かぶ女の死体と見事にリンクしている。
窓の外で無心にだらしなく口をパクパクさせながら泳ぐ魚でいるのか、池の上をたゆたうように浮かぶ死体になるのか、はたまたトウヤマやハルナのように自分の弱さと向き合い一歩踏み出すのか、そういったことを描いた小説だと自分は考え出した。


ただここで一つ誤解されたくないのだが、こんなアキオやナツに対して、嫌悪感や腹立たしさを感じていない。むしろ愛おしささえ感じている。どうしようもないこの二人だが、人の弱さは先天的だったり後天的だったりする。

「中東の人たちはもっと大変な状況なんだよ」
「虐待を受けて育った子だって頑張っているんだからもう少し頑張りなよ」

こんな言葉たちはくそくらえである。
人が辛いと感じるレベルや度合いは人それぞれで違うし、それに対するメンタルの強さも人それぞである。決して均一化してはいけない感覚だ。
自分の痛みはしっかり労わってあげてほしい、自分の痛みをしっかり痛がってあげてほしい。
「そんなことでくよくよ悩むな」とは決して思わないであげてほしい。
そんな心を持って登場人物たちと向き合ってほしいと思っている。


最初に述べた通り、「この本はこういうものだ!」と断定したくない。あくまでそういう読み方もできるんだな、程度で良い。
自分の大切な人の考えを聞かせてもらった時には目から鱗だった。
それぞれの感じた感情、違和感に対してとことん考えて分かったことがあれば、それは正しいと思っている。

章の終わり毎に出てくる女将や従業員や他の宿泊客、それらについてもなぜこの本で登場させたのか語りたいところだが、文字数がとんでもない量になっているので、やめちゃいました。


皆さんご自愛ください。


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