”あなた”とはなにか?

自分は何者なのか。
はるか昔から、人類が余暇を手に入れてから延々と繰り返されてきたこの議論は、21世紀を迎え大陸間の意思伝達がミリセカンドで行えるようになってからも、絶えることはない。

そもそもの前提として私の考える私とあなたの考える私、道行く人が見る私はいずれも異なるものであり、包括的なすべてが私であると主張するならば私の定義は極めて曖昧かつ不定の物となってしまうし、私の思う私こそが私なのであるというならば社会からの排斥は避けられない。
社会は個人を一つのドットとして扱うことで肥大してきたものだから、周囲からの認識を重視する客体的な視点を持つこと、あるいはそれに迎合することを条件に我々を受け入れる。しかしそれは私を私として定義する根拠を喪失させることにもなる。個人の意志の衰弱によって、社会は生きている。

私から何が失われたら私は私でなくなるのか。攻殻機動隊のような議論だが、欲求5段階説が真実であるなら、そもそも人間は社会からの認知と承認なくして欲求を充足すること叶わず、されど社会からの承認には個人の喪失という代償を伴わなければならず、自分の認識を離れた「イメージ」として生きて行くしかなくなる。
それが嫌なら社会からの排斥を恐れず孤立しながら私を堅持するのだけど、しかし認知されず消えていく命は歴史には残らず、果たして誰にも知られずに、比較対象も持たずに消えゆくものに、私というものを定義する根拠はあるのだろうか。


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