ノラができるまでの私:社会にでるまで編

ノラができるまでの私は、わりと会社員時代が長い。

ざっくり言うと、
短大を卒業してすぐに入った会社で6年。
その次の会社で3年。
そこから1年ちょい人生の夏休みのような期間があり。
その次に知り合いと3人で合同会社を設立し、そこで取締役として3年。
そしてノラを設立して2年半という感じ。

社会人経験約16年くらい。
まだたったの16年か〜。
(「今からまた16年使ってもまだ53歳か、若いな」って思ってしまうよくわからない余裕が私にはある)

子供の頃の夢

子供の頃は絵を描くのが得意だったのと、当時はやっていたちびまるこちゃんんの作者「さくらももこ」さんがとても緩かったため「漫画家ってやりようによっては楽そうだな」と思い漫画家を目指していた。
(昔から私は「物は考えよう次第だ」と思う傾向があり、どう転んでも自分が楽に感じるような思考回路になっていた。俗に言う楽観主義である。今思えばさくらももこさんだって、画風は緩かったが仕事自体は決して楽ではなかっただろうと今ならわかる)

高校で仲良くなった友達に「画塾に行こう」と誘われ、よくわからなかったが面白そうだったので通いだし、そのうち美大を目指すようになった。
(画塾とは画家の人がやっているデッサンとかを勉強する塾のことである。社会人の人が油絵などを勉強するために通ったりもするが、主に学生が美大受験で必要なデッサンを勉強するために通うところである)

最初は彫刻家を目指していたが、大学で行われているオープンキャンパスで学生の作品を見に行った時、彫刻科の作品を見て全体的に「邪魔だな」と感じてしまった。作るのは好きだったが「作った結果何の役にも立たないな」と思い、受験応募ギリギリで応募選考を変えてしまった。

当時の私はいっちょ前に、社会の中での自分の役割を見つけようとしていた。
人の役に、社会の役に立たないことはやってもしょうが無いと思っていた。
だって、役に立たないと誰からも感謝されないし、必要とされないものはゴミでしかない、と。そして自分の進路を迷いに迷っていた。

結果、一回目の受験は失敗し、たかだか短大に入るためだけに一浪をすることになる。

ただ、私の性格上、ここで万が一入れてしまってもきっと辞めてしまっていただろうと思う。やる意味を見いだせていないことを、とりあえずやるというような性格ではないからだ。自分が無意味だと思うことはやりたくないのは昔から変わっていない。

一年浪人で見つけたやりたいこと

高校から一回目の受験をするまで2年ほど通い続けていた画塾は、これを期に場所を変えた。

その画塾が悪いのではなく、そこは長くいたため居心地が良くなりすぎてしまって、自分がしまらない気がしたからだ。最初の画塾の先生は、絵も人としても今でも尊敬している。

次の画塾は前のところとは違って「塾」感が強いところだった。
「受験対策」感が強いと言いましょうか。
前のところは先生が一人でやっていたが、ここでは先生が4人くらいいて、いろいろな視点があるのでそれもいい刺激になった。

そこで「油絵」に興味を持ち、描いてみたら、油絵というのは「描く」というよりか「造形」に近いところがあり、絵の具を乗せて作り上げていく感じで、それがとてもおもしろく、一気に油絵にハマった。

油絵というものができた由来もおもしろかった。
最初は、写真がなかった頃に、こういう事件でしたよっていうのを人に見せるために忠実に描いていたものらしい。

そんなわけで、今度は画家になることを目指し、嵯峨芸術短期大学(当時の名前で今はどういう名前か知らない)に合格し油絵の道を進んだ。

短かった美大生活

短大は非常に短く、入学したと思ったら翌年にはもう卒業。
あっという間過ぎてよくわからないまま終了した。
油絵専攻の先には、当たり前だがその道の就職先などなく、さてどうしたものかと考えた私はとりあえず近くのイオン(当時はマイカル)に入社。
そこで生計を立てつつ、いつか画家になるぞと夢見ながら社会人がスタートしたのだった。

ちなみに

うちは短大当時一番生活が窮困しており、学費は奨学金を借りて通っていた。
35歳まで13,000円くらいを払い続け、35歳で完済した時は「ようやく卒業ができた」という気持ちになった。
親に完済の連絡をしたら「あの時はお金を出してやれなくてごめんね」と言われた。
全くそんなこと思っていなかったのに、気を使わせてしまっていて逆に申し訳なかったなと思った。
親というのは、いつまでも親である。ありがたや。

日々ラーメンを食べることができたらそれだけで幸せです。