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誰かのために祈るということ

親友が母になる。嬉しさと少しのさびしさが入り混じった気持ちになるそんなとき、わたしは決まって宮島の厳島神社にお参りに行く。まだ見ぬ赤子よ、どうか元気もりもりで産まれてきてくれよ。そうして、社務所で安産のお守りを授かって友達に渡す。
どうして厳島神社なのか、特に理由はない。ただなんとなく広島といえば宮島さんかな、というくらい。神さまも仏さまもいないと思っているから、手を合わせる相手は誰だっていいのだ。
いるはずのない神さまに祈るなんて矛盾しているのだろうか。そうでもないと思う。
誰かのために祈るということ、それは「君のことを気にかけ、心配し、想っているよ」と表すことだと考えている。たとえ遠くに居ても側にいても、自分の身を案じ、祈ってくれる人がいるという事実は、その人にとって心の支えになると思うのだ。神社で授かるお札や御朱印やなんかよりも、その事実こそが大切な誰かにとってのお守りになるのではないだろうか。
今、この人(とそのお腹の中にいる人)のために祈りたいと思う友達が何人かいるけれど、疫病がはびこる今は神さまにも会いに行けないな。はやく緊急事態宣言明けないかな。

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