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「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」の愛城華恋にみるアイデンティティ形成の過程

「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」
それは――

どうも、口上バトル大好きオタクです。
大学も4回生になりました。単位も取り終わり(予定)、進路も決まり(予定)、あとは卒業まで秒読みといったところ(拡大解釈)
……の前に、卒業するために卒論を書く必要があります。
私も例外なく、絶賛ひーこら書いている途中。
どんなテーマにしたかというと、

「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト(以下劇ス)に関する一考察」

なわけねぇだろとも、あながち言えないんですよね。

そんなところで、本noteは、劇スで描かれた愛城華恋というキャラクターを振り返りつつ、何か卒論に書けるようなことねぇかなァと模索するものとなっています。

――これは学生の卒論ではない。論文を欲す者は無用である。
(長文書くのなんて久しぶりだったので、暖かい目でお願いします)

さっそくあらすじから。
アニメ版で「ひかりとともに最高の舞台を演じる」というという夢を叶えた華恋は、夢が叶ってしまったがゆえに「自分の未来において立つべき舞台」を見失ってしまいます。
そのため、劇ス開始時に9人の中では唯一卒業後の進路が定まっていません。
つまり、劇スの表テーマは「9人の舞台少女の中で唯一『夢を叶えてしまった』存在である愛城華恋が見つける新たな舞台とは何なのか」となります。

そんな彼女を、アイデンティティ理論を用いて考察してみようと思います。
そもそもアイデンティティとは、1950年代にアメリカの精神分析学者エリク・エリクソンによる言葉で、現代では一般的にも使用されるようになりました。

自己同一性(英: identity)とは、心理学(発達心理学)や社会学において、「自分は何者なのか」という概念をさす。
アイデンティティもしくは同一性とだけ言われる事もある。
当初は「自我同一性」(英: ego Identity)と言われていたが、後に「自己同一性」とも言われるようになった。
エリク・エリクソンによる言葉で、青年期の発達課題である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そして、エリクソンのアイデンティティ理論を発展させた者にジェームズ・マーシャ(1966)がいます。
彼はアイデンティティのあり方を四つに分類し、同一性地位(identity status)として提唱しました。

アイデンティティの達成状況は、

「同一性達成(identity achievement)」
 危機または探求を経験し積極的関与もしている
「モラトリアム(moratorium)」
 危機または探求の真っ最中で積極的関与はあっても曖昧である
「早期完了(foreclosure)」
 危機または探求の経験はないが積極的関与はある
「同一性拡散(identity diffusion)」
 危機または探求の経験の有無については両方のタイプがあるが積極的関与がない

の4つであるとされ、「危機(crisis)」経験の有無と、「積極的関与(commitment)」の有無によって分類されます。

「危機(crisis)」
 児童期までの過去の同一視を否定したり再吟味する経験
「積極的関与(commitment)」
 危機後の意味ある選択肢の探求の末に自己決定したことに対する積極的な働きかけ

劇中の元同級生たちを見ても、思春期の時点で自身の方向性を見つけている華恋は珍しく、一般的には学生生活をモラトリアム(猶予期間)とし、その間に自分のやりたいことを見つけて社会に出る人が多いでしょう。
しかし華恋はひかりとの出会いによって、幼少期の時点で既に「約束」――ひかりの言葉を借りるならば「運命」と言うべきか――という形をとって、自分でレールを定めていました。
「commitment」が「約束」の意味もとるように、まだ危機も覚えていない幼少期に、ひかりとの「約束」を契機に舞台に上がることを自己決定した(積極的関与)華恋は、その時点から既に早期完了の状態で生きてきたということになります。
アニメ1話では「役をもらえればいいや」という状態でしたが、これは原点のひかりが転校してきたことで「アタシ再生産」できたように、単にモチベーションの問題でした。

そして、「約束」だけを胸に、寄り道せず自身で規定したレールの上を生きてきた華恋は、「約束」を果たしたとき、多くの学生以上に「何にもないや」と感じてしまう(児童期までの過去の同一視を否定)のです。同時に、進むべきレール(関与対象)がなくなってしましました。
乗っていた電車が途中で止まり、砂漠に放り出されたのはまさに、「約束」のレールが途切れ、進路未定である華恋の心情を表しています。

舞台に上がる目的を他者(ひかり)に依存していた華恋だけが浮いた状態であり、そんな彼女にななは「みんなは渇いて次の舞台を求めて…でも華恋ちゃんは次の舞台を見つけなければならない。自分だけの舞台を」と声をかけるのでした。

心情としても、スクリーン上でも列車(燃料)とレールを失った華恋は、早期完了の状態から同一性拡散の状態に移行しました。
「私だけの舞台って…なに?」
華恋は東京タワーに向かって徒歩で向かいます。
ここで東京タワーに向かうのは、まっさらになった華恋が唯一持つ、果たしてしまった「約束」のメタファーだからでしょうか。

そして、たどり着いた東京タワーでひかりと対峙します。
共に「運命」を交換したひかりはというと、華恋に助けられ目的を変えた――再生産したため、同一性拡散の状態に陥っていません。

舞台に上がる目的・覚悟を失った華恋は、唐突に感じる観客の視線を受けることができず、「舞台少女としての死」を迎えます。
これは、唐突なワイルドスクリーンバロックそのものや、ななの「なんだか強いお酒を飲んだみたい」に応じることができなかった他の舞台少女らが「舞台少女としての死」を見せられたのと同じ構造となっています。

ひかりは、動かなくなった華恋の復活を望み、塔から落とします。
ちなみに、狩りのレヴューを除くすべてのレヴューが塔から降りる――つまり戯曲『スタァライト』であることは他の方の考察を読むまで気にしていませんでした。赤面。

タワーから落ちた華恋は棺のようなものに変化し、列車に乗せられます。ここら辺の記憶は曖昧です。
そして列車のエンジン室にて、幼少期と中学生時とレヴュー前(だったかな?)の華恋が現れ、付随する思い出を燃やしていきます。

舞台に上がると決めることは、他の選択肢を選ばないということ。
積極的関与の残酷性については導入で、

普通の楽しみ、喜びを焼き尽くして、運命を果たすために。
わずか5歳で運命を溶鉱炉に。
――危険、ですねぇ。

と、キリンによって語られます。

また、このことは「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」の主題歌である「再生賛美曲」のテーマでもあり、この曲は

選ばなかった過去たちへ
静かに捧ぐ讃美歌を
あの日の私の続き
未来は笑えていますか?

という直接的なフレーズから始まります。
この曲の解釈はここでは触れません。

「ひかりとともに最高の舞台を演じる」という約束を果たした後の同一性拡散の状態であれば、約束のことだけを考えて生きてきた過去は、それ以外の何もないように捉えられていました。
しかしそれは、「ひかりとの別離」や「自分ルール」を続けることによって「約束」に対しての執着が目立つようになっただけであり、本来は「舞台少女に魅せられた/キラめきを浴びた少女たちの約束」でした。

劇中の回想シーンは、私たち観客へ向けられていたものであり、「舞台少女としての死」を迎えた彼女の回顧でもあるでしょう。そうして本来の願いを思い出し/理解したことで、選ばなかった過去を燃やし、選択した過去の自分を肯定/賛美する。そして選択した過去の自分までをも、次の舞台へ上がる燃料とするのです。
これは、過去の同一視を再吟味する探究的な「危機」の過程であり、関与対象の復活であります(同一性達成)。
「愛城華恋は舞台に一人!」
「愛城華恋は次の舞台へ!」
そして彼女は、いつもの、あの愛城華恋としてひかりの元に戻ってきます。
「帰ってきたよ、列車に乗って!」

終盤の「私、ひかりに負けたくない」、そして「約束」の象徴である髪留めが飛んでいったことは、「共に最高の舞台を演じる」という約束の相手である「ひかり」の意味付けを、「友達のひかりちゃん」から「ライバルのひかり」に変えた「約束」の再生産が行われたことを示していると考えます。
東京タワーという古い「約束」は崩壊し、新たな舞台の主役のシンボルであるポジション・ゼロへと突き刺さりました。
続く、「演じ切っちゃった。レヴュースタァライトを」に対し、
「じゃあ、探しに行けばいいじゃない。次の舞台、次の役を」
と言って渡されるトマトを受け取った華恋は、トマトを受け取ること、即ち覚悟を持っていることを示していると考えます。

こうして、運命を演じ切り、完全燃焼してしまった女の子がもう一度燃え上がる/再生産するお話は終わります。

また、対抗という感情は全体を通して野生になぞられ、「ワイルドスクリーンバロック」という造語にも表れています。
「内なる野生、相手への対抗感情の確認による再燃/再生産」が本作のテーマ/アンサーであると考えます。

おしまい


「スタァライト」は作者不詳の物語。
キラめきはどこから来て、どこに向かうのか。
そして、この物語の『主演』は誰か。

私は、それが観たいのです。

さて、導入にてこのようにキリンが問いかけていましたね。
答えはありませんが、「どこに向かうのか」について少し。

この正体不明のキリンは、私たち観客の役割の一部分であることは明確でしょう。彼女らのその後を見たい欲張りな観客であり、舞台と演者がそうあるために必要な観客であります。
一方で、私たちは彼女たちに働きかけることはできません。
第四の壁の演出として用いられることはあっても、お話に介入することはできません。

彼女たちと接することができるとすれば、それはキラめきの行き先になることだけです。
彼女たちの物語を観劇して、彼女たちはフィクションであると分断したり、何も受け取らない/還元しないままであるのはナンセンスです。
何かしらの意味/キラめきを受け取ることで、
私たちの人生という物語/舞台に彼女らを刻むことで、
私たちはこの物語を真に観劇したと言えるのではないでしょうか。


ラストは駆け足の感情論になった気がしなくもないですが、とりあえず感じたことを書いてみました。
日本語も構成も丁寧に書きたいです。

それにしても、これで4,500字程度ですか。
卒論はこの3倍弱の12,000字以上であることを考えると……
……考えたくないですね。
この落書きをネタの一つに書き進めていこうと思います。

また、書くにあたって劇スを華恋目線だけでも振り返ってみましたが、改めてすごい体験だったと感じました。
再演したさを抑えられません。
忘れている箇所も多いので、円盤買いたいです。

気が向けば修正・加筆していきます。

では最後に、エンディングからいつも泣いちゃう一節(サビ)を。

まぶしいからきっと見えないんだ
私たちの行き先
だから心配しないでね
まっすぐな道ばっかじゃないけど大丈夫

この殴り書きにあたって、大いに参考にした記事のリンクを張っておきます。ちゃんとした考察を読みたい方はこちらをどうぞ。
https://note.com/affogatov/n/n77f6bdae69d0

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