人としての脆さ -勇気と希望-
人は脆いもの。
でもみんな頑張って生きています。
「脆い」というと「弱さ」と勘違いされそうです。
私も昔は勘違いしていました。
2年ほど前にブレネー・ブラウン(Brené Brown)の著書を知りました。
これまで3冊読みましたが、どれもとても勉強になります。
ブレネーの定義する脆さは「リスク」と「不確定さ」。
決して「弱さ」ではないのです。
大好きな人。
その人も自分を好きでいてくれたら、とても嬉しいです。
でも、明日も好きでいてくれるでしょうか?
もしかしたら、突然に自分の人生からいなくなってしまうかもしれません。
そんなのもちろん嫌です。不安です。
でも、保証なんてどこにもないんですよね。
「脆い」んです。
„Daring Greatly“ という著書に、彼女がリサーチの中で
「脆さを感じるのはどんな時か?」
という質問をして出てきた回答が、幾つか例として書かれています:
・マイナーな意見を言う
・助けを求める
・プロモートされたが成功するかどうかわかららない
・赦しを乞う
・自分や友人に関しての噂話や悪口に対抗する
・「好きだ」と告白する
・自分のビジネスを始める
・「No」と言う
・会社を解雇される
・社員を解雇する
・恋をする
・自分が作ったものを世に出す
まだまだたくさんあります。
ブレネーは、上記のような「脆さを感じるとき」というのは、人が自分の中にある「真実に向かい合う」ときであり、「その真実に立ち向かう決意をする」ときだと言います。
「脆さ」を感じるとき。
感じている不安感は「成功したい」「達成したい」という気持ちがあるから。
不安だけど本気で達成したいから「それでもやる」と心を奮い立たせるのです。
セオドア・ルーズベルトの1910年の演説「The Man in the Arena(アリーナの男、アリーナに立つ男)」というのをブレネーは引用しています。
この演説をすごく簡単にまとめると:
後から「ああすればよかった」「こうすべきだった」と批判や粗探しをする人がいるが、そんなのはどうでもいい。
栄誉は『アリーナに立つ人』のものだ。
汗とホコリと血にまみれながら戦い、倒れてもその度に立ち上がって、
何度も立ち向かう人。
失敗や弱さがないところには努力もない。
ただひたすら目標に向かって行動するのみ。
熱狂と献身を知り、そして自分の信じるもののために力を惜しまない人。
そういう人が
最善の場合には勝利し
最悪の場合には、敗北する - 戦いながら…
(*超簡易意訳ですので、興味のある方は原文を参照ください)
ブレネーの言う「脆さ」の考察の根底には、この演説があります。
脆さは誰にでもあります。
不安だし怖いし、できるなら逃げ出したい。
恥じる必要はありません。
ほかの人にどう思われるか、なんて気にする必要もありません。
大事なのは、それを自分の中にある「真実」として受け入れるかどうか。
そして「それでもやる」と決意する「勇気」
結果は後からついてくるものです。
戦って敗れるか
それとも勝利するか
やってみなければわかりません。
不確かな未来に向かう勇気。
それは「希望」でもあります。
「夢」「ヴィジョン」「ミッション」
人はそれぞれに違う名前をつけていますが、結局のところは
「自分の描く、何か輝かしいもの」
それを手に入れたい、実現したいんですよね。
チャンスは限りなくゼロに近いかもしれない。
でもゼロではない。
そこに希望があります。
私たちは希望があるから戦えるんです。
ブレネーは「『絶対』とか『間違いなく』というのはとても魅力的な視点だけど、そんなのは人生には存在しない」と言います。
アレーナに立つ「完璧な」タイミングを待っても、そんなのはいつまでも来ないし、待ってる間にチャンスも逃げていって取り返しのつかないことになってしまう。それは貴重な時間と才能の無駄だ…と。
行動しなければ、何も生まれないです。
2020年になりました。
(私がこれを書いてるのは2019年12月31日19時過ぎですが)
新しい年は、自分の脆さを自覚しつつ、勇気をもって
自分の「アレーナ」に立つ覚悟です。
人は脆い。
だから強くなれる。
・・・・・・・・・・・
2020年が皆さまにとって素晴らしい年になりますよう
心よりお祈り申し上げます。
Noriko
20年以上の海外生活に終止符を打ち、2020年後半には日本へ帰国します。サポートは皆さんとお会いするときのお茶代として還元させていただきます。