自分の感受性ぐらい/茨木のり子

2020年 10月 06日

父親が愛読していた詩で茨木のり子さんの『自分の感受性ぐらい』という詩がある。詩集が家のいつも見えるとこにしまってあって、父も特に気に入ってたし、わたしにもおすすめしていたので10代の頃に読んだことがあったけど、そのときはその詩の意味がまったく理解できなかった。

その詩を今日突如思い出して読み直してみた。


自分の感受性ぐらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ


ここで終わっていれば「今読んだらいい詩だな」で終わっていたかもしれない。
だけど、その下の本人のコメントまで読んだら全然この詩が違う意味で書かれたことがわかった。


(茨木のり子さん談 より抜粋)
それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしい んじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじ ゃないかという疑問は子供心にあったんです。ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって 。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかった わけなんです。 だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうし たときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがったって言えるけれども、 人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをする っていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」 なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。


そういうことだったのか。感動。

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