家族の境界線

家族というのは、どうしてこうも感情を揺さぶってくるのでしょうね。特に親との関係性。僕だけ?

幼い頃は感情のコントロールが大変苦手で、人付き合いもうまくできない子供でした。今の知識で考えれば、ちょっと特殊な感受性とか脳の特性とか、色々複雑なところがあったと整理することもできるのですけど、まぁなんせ得られる情報も限られていた時代ですから、親はだいぶ心配したものでしょう。

そんな僕も、経験や出会いを通してどうにかこうにか世渡りできるくらいにセルフマネジメントが上手になったようで、マネージャーとしてもそれなりに評判がよろしかったように記憶していますから、きっとそうなのでしょう。記憶は美化されやすいので事実から乖離しているかもしれないけど。

ともあれ、感情との付き合い方はそれなりにスキルを獲得してきたハズなのですよ。しかし、こと親が相手となると不思議なもので、ついつい真正面からぶつかってしまって。一方で弟は受け流すのがやたらと上手だったりして、兄弟と言えど違う個体であることがよく現れていて興味深いものです。


さて、前回も出てきた、祖父を見送った際のお話を今一度。

祖父は穏やかながら芯の強い性格で、人付き合いの良い、思いやりに溢れた人物でした。6人兄弟の長男ともなると、かつての時代ではずいぶん多くの物を背負ったであろうことも伺えます。それでいて地域の活動などにも精力的で、それなりのポジションも務めた時期がありましたので、どこに行っても誰かに声をかけられるような、人気者。

そんな祖父も、最期に側にいたのは結局家族(すなわち親族)だけでした。


まぁもちろん、98歳での大往生でしたし、生まれ育った土地から離れた環境だったり、複数の条件が重なっているのもあるのでしょう。地元で執りおこなったお別れ会には、それこそ沢山の方がお越しくださいました。

それでも、最期の最期は家族だけだったのですよね。

別にこれは悲しい話だと言っているワケではなく、単純に"そういうものなのだなぁ"と思っただけの話です。


さて、話は再度変わりまして。

先月のことですね、脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなりました。
報道によると、最期を看取ったのは泉ピン子さんだったとか。

ここで思い出されるのは、さらにもう少し前。
樹木希林さんが亡くなった際には、浅田美代子さんが足繁く通ってらっしゃったそうですね。


もう一つ、別のところから。

最近、下重暁子さんが書かれた『家族という病』という、そのものズバリなタイトルの本を読みました。敢えて本音を書けば、一部で論理が破綻しているような、自己矛盾も抱えた意見の集合体に感じまして、手放しにオススメできる本ではありません。が、まさに最近僕が考えていた範疇の内容でしたので、タイミング的にはよいものでした。考えているからこそ手にとったので当たり前ですけど。

ちょろっと検索してみたら、こちらのインタビュー記事がよいメッセージでした。まさか僕が週刊プレイボーイの記事を引用することがあるとは思いませんでしたけど。

本の内容をあまり簡単にまとめるのは好きじゃありませんで、なぜこの話を取り上げたか、だけ触れておくと、
家族の概念なんて明確なものは無いのに、捕われた挙げ句に、自分を苦しめたり、不必要な干渉をしてしまう人が結構いる印象があります。まぁ何やっても鬱陶しいヤツってのはいますけどね、しかも親切だと思ってるのが厄介なね。いけない、このくらいにしよ。


この文章、上記三点を踏まえれば、もうご想像の通りの主題です。

現在、僕は30代です。仮に祖父のように、あと60年生きたとして--正直これは身の毛もよだつ仮定です--その頃に、はたして"家族"という概念はどうなっているのでしょう。

60年前(1960年台)は国民年金制度が開始されたくらいの頃合いだそうです。人口は9,400万人くらい、合計特殊出生率は2.0、高齢化率は5%台。

当時からすれば、現代が如何に想像のつかない未来であるか、容易に想像できる一方で、同時に60年後が全く想像を超えているであろうことを示しています。そんな時代の"家族観"なんて分かるワケもありません。

とか言いながら、何にせよ、家族の概念なんてものは過去にも慣習にも、ましてや他人の意見なんてものに左右される必要はこれっぽっちも無く、個々人が大切だと想う人を大切にすればいいのだと思っています。とすれば、もはやこの意見すら、存在意義がほぼ全く無いことにはなってしまうのですけど。

ただ、家族関係で苦しむ方や、孤独を恐れる方には、もしかしたら、ほんの少し、起きたら忘れるくらいかもしれないけど、少しだけ救いになる話ってのがあるよ、と伝えたいのですね。


念の為、補足しておくと、僕は橋田壽賀子さんや樹木希林さんが幸せだっただろうとか、そんな話がしたいんじゃありません。
家族・親族でなかろうと、最期の旅路を一緒に歩みたいと思える人に出会える人生にはある種の豊かさを感じる、という話です。

誰かの最期を想像した時に"できる限りのことをしてあげたいな"と思うのなら、それはもう家族と言っていいんじゃないのかい?どうなんだい?


家族というのは、どうしてこうも感情を揺さぶってくるのでしょうね。


そんな具合で、前回前々回と続けてしまった、
死生観シリーズ三部作でした。これで終わり!
辛気臭い話ばっかでごめんよ。

ではでは、
次回も、どうぞよしなに。

末尾ハンコ

<編集後記>
そうは言っても、法律的に"家族の境界線"が存在していたりして、簡単にはいかないことも色々ありますけどね。。。時代に合わせてキチンと変わっていってくれることを祈るばかりです。

前々回はこちら

前回はこちら

よろしければ合わせてどうぞ。


読んでいただいてありがとうございます。貴重な時間をいただいていることは自覚しつつ、窮屈にならない程度にやっていきます。