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『八日目の蟬』を精神分析的に読む

はじめに断っておかなければいけないでしょう。

この作品はいわゆる精神分析や臨床心理とは関係ありません。一人として「カウンセラー」や「精神分析家」は出てきません。

また、この記事を読めば最初から「ネタバレ」のような情報に触れてしまうことになります

1ページ目から引き込まれます。最初のシーンで主人公の女性は「誘拐」するのです。「希和子」は不倫相手の新生児を「愛おしさのあまり」さらってしまうのです。

情報はごくわずかです。「希和子」がどうして他人のマンションに忍び込めたのかがやっとわかる程度です。

それでもたったこれだけの事実から「希和子」が「交わることのない世界」に膨大なエネルギーを注いで生きているのがわかります。

「精神分析」という一種のカウンセリングには、ハッキリした価値観などないように見えます。分析家はクライアントに向かって、ああしろとも、どうしろとも、いわゆるアドバイスらしき言葉をあまり言わないらしいのです。

それでも「分析家」と「クライアント」が肉体的にではなく「交わること」によって何かしら価値のある「生産」を為すのを「よし」としているようです。

だから精神分析の読み物には「非生産的」とか「交わりがない」とかいったワードが上がってきます。そういった言葉に注意が促されます。

そういう意味で「希和子」は存在そのものに注意を促される女性です。不倫の相手は現実の「生産」を喜びません。その代わりに彼女との「万能空想」ばかりを愉しみたいのです。

彼女と交わっておきながら、何も生まない関係を望むのです。それは交わっているようで交わってない「不毛な」空想のごっこ遊びのようにも見えます。

妻とはいつか離婚するといい、離婚後に希和子と結婚して、そこで生まれた子どもと、「ふつうの生活」を一緒にしたいのだと夢のような話を語るのです。

連れ去られたのちに、幼児のうちに無事に帰宅した女の子は、父親と喜和子を痛烈に批判します。

魅力のある人には思えないし、思いやりがあるようには思えない、女にだらしのない、なんにも決められないクズみたいな男の人を、どうしてこの二人の女は見限らなかったんだろう。とくに希和子だ。妻からの嫌がらせ電話も解決してくれず、実家まで追いかけてきたくせに父親のお葬式には顔も出さないような人のことを、どうして忘れることができなかったんだろう。

「希和子」の問題は他人と交わる痛みを引き受けられないところです。痛い目にはさんざんあうにもかかわらずその痛みを避けてしまうのです。

今は静かに眠るこの子が、呼吸を止めたり発熱したり嘔吐をくりかえすこともあるんだと、急に気づく。そんなの当たり前のことなのに私にはわからなかった。私に向かって笑いかけたまま成長していくんだと思っていた。なんて馬鹿。薫はもう空想上の赤ん坊ではなくて、下痢もすれば嘔吐もする生身の人間だというのに。

不倫の男と同じように彼女も万能の空想に膨大な時間を費やし、それがまるで現実であればと錯覚して生きているのです。

「七月三十日が誕生日だから、もう六カ月になったのね。早いなあ」
 私は訂正した。そうだ。薫は私の赤ん坊なのだ。私が薫と名づけた子どもは、予定どおりその日に世界にあらわれたのだ。

彼女は空想を現実にかぶせることによって幸せを得ようと必至に努めているわけです。

でもこれを維持するには現実からの要請に対応しなければなりません。彼女はその際に生じる痛みを知覚すると取り乱しておかしくなってしまいます。

何をすべきか。私は今、何をすべきか。必死に考えれば考えるほど、なぜか眠気が襲う。

「眠ってしまいたい薫」にただ共感すればいいならこれでいいのでしょう。薫と同じくらいの2〜3歳児の「姉」ならこれでいいのでしょう。いっしょに寝てしまえばいいのでしょう。

しかし誘拐して「母親になってしまった希和子」は赤ん坊といっしょに眠っている場合ではありません。それでは捕まるだけです。

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