見出し画像

透ける頓:味覚障害が生む薄い壁


「やっぱりカフェインが向こう側にいる」
 鉛玉のかわりにシャボン玉が出てくるオモチャのピストルを、新宿御苑で乱射しきったあとに立ち寄ったカフェで彼女がこう言った。なげやりに語る舌は、エスプレッソですらコーヒーの味を感知できないらしい。
 七年来の付き合いになる友人・のんちゃんは、半年ほど前に新型コロナウイルスに罹患し、後遺症に味覚障害という置き土産を受け取ってしまった。
 相互フォローしているTwitterのタイムラインには、のんちゃんの味覚障害に対する呪詛が連日連夜投下されていた。味の良し悪しがわからないのだから、外食したって仕方がない。どうせ何も感じない食事にわざわざお金を払いたくない。
「ご飯行こう」
とか言われても困るから、もうしばらく友達と出かけてないし、食欲自体が湧かない。いま食べることは生命維持のための義務で、修行。
 誰かと会いたいときに使う定型文は
「なんか食べにいこう」
のはずだけれど、いまの彼女には
「なんも食べないから私とどっか行こう」
が最適解なんじゃないかと思った。そういったわけで食事の時間を避けたお昼すぎから夕方までの間、ふたりで新宿御苑を徘徊するだけの予定を組んだ。結局話し足りずにカフェとレストランに連行してしまったので
「なんもしないからホテル行こう」
はこうやって使うのかとぼんやり思ったりした。
 のんちゃんの口腔内と味覚細胞の間に張られた薄膜。それは彼女と世間を隔てるものであり、そしていまの彼女と味覚を失う前の彼女の間に生まれた隔たりでもある。
 バイト先で差し入れられるお菓子、焼肉屋での打ち上げの誘い、スタバの新作を宣伝する広告。
「美味しいものは嬉しいでしょう?」
という善意の鉛玉で、彼女は毎日撃たれ続けている。
 ある美食家がこんなことを言った。旅行も買い物もスポーツも女遊びでさえも、大概の娯楽はいつか飽きてしまうが、食事だけは唯一死ぬまで楽しめるんだと。なんと残酷なことだろう。
 卓上のエスプレッソを眺めてのんちゃんは言った。
「最初は食べ物を美味しく感じないこと自体に落ち込んでたけど、もう味がしないのが通常運転になってくると、周りとの食への感覚の違いが顕になって寂しくなってくるんだよね。目に見えないことだから仕方ないんだけどさ、配慮してもらいたい訳でもないし。ただみんな楽しそう、私もあれ好きだったのに、昔だったら並んででも食べに行ったのにって。今は飯に金かけるのが馬鹿馬鹿しく感じて、通ってた店に入るのを躊躇するし、そういう自分にも絶望するよ。匂いもほとんどしないし、世界が平面的になっちゃった。私いま臭くない? 大丈夫?」
 御苑の芝生に寝転がって、嘘みたいに広い空色を共有した。同じカフェの同じ席で、同じジャズを聴いている。だけど、同じものは食べられない。
 もし彼女が失ったのが脚で、車椅子に乗っていたら。あるいは視力を失って、白杖と盲導犬を携えていたら。
「大多数が持っているものを持っていない人には配慮してあげましょう」
という道徳が、生ぬるく彼女を包んだだろう。それが粘度の高い同情や好奇心や偽善だったとしても。しかし彼女が背負ってしまった半透明の厄介は、当人だけに見える薄膜で、マジックミラーのようで。できることなら校舎の窓ガラスを破る要領で、岩でも投げて解放してやりたいと思った。
 御苑に行った日から、のんちゃんとは極力最小限の食事代で済むファミレスやIKEAのフードコートを口実に度々出かけるようになった。
会うたび私は無神経に
「ここのコーヒーはどう? やっぱり薄めた泥水?」
などと小石を投げるし、彼女も
「泥というか、ちょっと焦げくさいお湯だね」
とグローブでキャッチする。
先日新宿三丁目の副都心線前改札で、
「味がしないのにわざわざ私に会いにお茶しに来てくれるなんて愛だね」
と投げた。のんちゃんは
「愛だよ!」
と投げ返した。

この記事が参加している募集

#散歩日記

9,727件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?