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ショートショート/異国にて

私は駐屯米軍の歓楽街として栄えたタイのパタヤにいた。不本意にも、天職とばかりに尽くしてきた営業部から経理部に転属になり、すでに3年が経つ。国内外に飛び回ってきた出張も全て無くなり、書類相手の退屈な日常に鬱屈して、ホテルだけ予約して飛び出してきたのだ。

今日もホテルで朝食を終え、ビーチを散歩している。何しろノープランだから、他にやることがない。携帯をかざし、遠くに「PATTATA」の看板を捉えたその時だった。「サラ?!」 サングラスをした一人の男性が近づいてくる。「覚えてない? 僕だよ、アートだよ」

アート? サラ? …… ああ、そうか。

20代の頃、半年ほどシンガポールに暮らしたことがある。多民族国家で、国民同士、本名では発音が難しく、覚えにくいという点から、英語のニックネームを名乗る習慣があった。郷に入っては郷に従えと、私も「サラ」と名乗っていた。

アートは、時々食事する友人の輪にいたローカルの一人だった。確か保険会社勤務で、コーカサス系の彼女を連れていて、人目を惹くオーラを放っていた。彼に憧れた時期もあったが、英語に自信を持てず、当たり障りのない会話しかしなかったと思う。その彼が私を覚えていたことにまず驚いた。もう15年くらい前になるだろうか。

休暇で来ているのかと尋ねると、彼は「いろいろあって、今はこの街で友人のホテルを手伝っている」と言う。

「サラは、休暇? 一人?」 軽く笑って頷く。順風満帆な人生を送っている女が、こんな中途半端な観光地を一人で旅しているわけがない。何かを悟られたかもしれないが、繕うつもりもなかった。

誰かが呼ぶ声を手で制しながら、彼が振り返る。「良かったら、今夜、食事でもどう?」 どうせ一人だし、特に予定もない。「いいわ」 「どこに泊まってるの?」 「そこの角のバーン・クーン・ナイ」 「じゃ、7時にそのロビーで」と言い残し、去っていく。その後ろ姿を目で追いながら思う。時は流れたが、彼はあの頃のままかっこよかった。何者にもなれなかった私が、なぜ今、しかもこんなところで、彼に再会しているんだろうか。

アートが選んだのはビーチ沿いに立つタイ料理店だった。行きつけらしいのでチョイスは任せることにする。「日本にはいつ帰るの?」 「今週日曜の昼便」 「まだ4日あるね」

美味しい料理とともに、穏やかな時間が流れる。「ねえ、僕が何回かデートに誘ったの、覚えてる?」 「?」 「覚えてないか…」 「あの頃は今ほど英語が使えなかったし、アートには彼女がいたよね?」 「彼女?」 「いつも連れていたブロンドの…」 「ああ、彼女たちは会社で任されていたインターンの学生だよ」 彼があらためて私を見る。「なんだ、通じてなかっただけ?」とため息交じりに笑う。ふと真顔に変わったアートが聞いてくる。「サラ、結婚は?」

今の流れでその質問か、と思ったが、答える。「幸か不幸か、独り身です」 たいてい、何で? と理由を聞かれるが、アートは聞いてこなかった。眉を動かして見せただけで、「料理、もう少し頼もうか?」 「チャーハン食べたい」 「いいね」 

その後ホテルまで送ってもらい、部屋に戻ると携帯に着信音が鳴った。彼からのつながり申請だった。「承認」をポチして、そのまま眠りにつく。

翌朝。シャワーを浴びながら、さて、今日は何をしようかと考える。お腹、空いたな。下に行って、好物のお粥を流し込もう。携帯と朝食券を握りしめて、部屋を出る。

「うわっ」 驚いた。アートが立っていた。「おはよう、サラ」 「なんでいるの?」 「待ってたんだ」 「いつから?」 「30分ほど前かな。レセプションの子にチップをあげたら、君の部屋を教えてくれたんだ」 個人情報取扱方針をこの国に期待してはいけない。

「サラは、今日、予定ある?」 「特にないけど」 「じゃ、うちのホテルに来ない?」 「何しに?」 「僕のアシスタント」 その笑顔から、私が行くことは彼の中では決定事項のようだった。

ラフすぎるタンクトップをワンピースに着替え、彼の車に滑り込む。「実は今日、ホテルに和食レストランをオープンさせるんだ。日本料理店で研修させたスタッフもいるんだけど、サラが居てくれたら安心だから」 なんと。よもや働かせる気か。「お給金は弾んでくれるの?」 「僕自身じゃため?」 「冗談はやめて」と苦笑する。

ホテルは聞いたことのない名前で外資系ではなさそうだったが、高級志向で、和食レストランも雰囲気が良かった。客の来店を前に、一通り、コース料理の説明を受ける。今日は予約で一杯で、多くが日系企業の幹部クラスだという。ホールスタッフの経験はなかったが、営業時代にVIPのアテンド歴はあった。コツなんて同じものだろう。

ホールスタッフは皆、若くて見目よかったが、緊張からか、どうにもぎこちない。そこで彼らに代わり、積極的な声がけを引き受けることにした。多少、歳はいっているが、時間だけがくれるものは確かにあると思っている。「ようこそ、いらっしゃいませ」 「〇〇様、お待ちしておりました」 「お楽しみいただけていますか?」 テーブル一つ一つを回っていく。「何か御用はございませんか?」 「いいね、この店、気に入ったよ」 「ありがとうございます」 ほら、ちょろい。要は、かまってあげればいいのだ。

全ての給仕を終え、客が満足そうに家路につくと、近寄ってきたアートに抱きしめられる。「ありがとう、サラ。君のおかげで大成功だったよ」 「大したことしてないけど」 「何人かの客に君の名前を聞かれたよ。早速、ファンができたね」 私、ここのスタッフじゃないんだけど、と一人ツッコミを入れる。でも、楽しかった。やっぱり人間相手の仕事が好きだったんだ。ふいに目頭が熱くなる。

「明日も来る?」 「来ていいの?」 残った数日間、ずっと彼のホテルを手伝った。かつての出張経験を活かし、運営面で気になることもどんどんフィードバックする。お給金はくれなかったが、アートが毎日夕食をおごってくれた。飲みすぎて、いろいろ愚痴ったこともあったかもしれない。 

最終日は、彼が空港まで車を出してくれた。チェックインを済ませ、出国ゲートに向かう。「また会える?」 「もちろん」 帰国を前に、実現しそうにない約束を交わす。「ハグしてもいい?」と聞くので、私のほうから手を広げて迎え入れた。感謝しかなかった。

夢のような一週間が終わり、灰色の日常が戻ってくる。到着ロビーでスーツケースを待っていると、携帯の着信音が鳴った。「無事に着陸した?」 彼だった。「うん。いろいろありがとう」と返す。また着信音。「サラ、こっちで働く気はない?」 突然の申し出だった。たった一言なのに心臓をつかまれる。からかわれているだけでは? 不安もよぎる。

「サラ」 耳慣れた声がする。空耳だろう。「サラ?」 画面に集中しすぎていた。頭を撫でられて我に返り、目を疑う。「アート?! なんで?」 「わからない? 真剣なスカウトだよ」 彼の友人が、ホテル運営に関するフィードバックを気に入ってくれたのだと言う。「同じ便に乗ってきたんだ。今度こそ、デートに付き合ってくれるよね?」



























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