呟きもしなかった事たちへ_No.53(2023年10月号)

※コンセプトは創刊号をご確認ください。ぼーっとする文章が続きます。バックナンバーはこちら索引もあります。

寿司の板前さんのことを「握人(にぎりんちゅ)」って言う人、絶対に友だちになれない。

今月も、呟きもしなかった事たちへ。


海老天そば

海老天そばの海老が小さい事に文句を言う人がいて、まぁ別に好きにすればという気はするが、一応言っておけば海老天そばの海老は小さいかどうかではなくて、ちゃんと海老の香りが衣に乗るかどうかだと思う。

というのも、海老天そばは海老を食べるのではなくて、海老の香りが乗ったそばを食べるのがポイントだと思っているからだ。海老の香りがついた衣が出汁と合い、それは普通のたぬき蕎麦では得られぬ美味しさになっている。海老が小さくて、そしてそれを「隠す」かのように大きめの衣をまとっているとしても、海老の香りが衣に移っていればそれは最高のそばではないか。むしろ衣が多い方がそういう美味しさとしてはありがたいまであり、「隠す」ではなくそれは「見せてきている」とまで思いたい。

でもエビフライのエビが小さいのはマジで駄目。あれはエビを食べるものだから。

伊勢うどん

8月に伊勢に行った際、ちゃんと伊勢うどんも食べてきたのだけれど、よく分からなかった

味はいい。しかしそれはそれとしてどういう食べ物なのかが分からない。柔らかく、おかゆのように負担が無いが、おかゆと違いサクッと食べられる。良さはあるし出番もありそうな気はするが、では実際どういう時に食べたいかと言われても挙げるべき事例が無く困る。

好き嫌いは別として理解はするのが、旅というか異文化に触れる意味だと思うのだけれど、今回は本当に「うん…?」で終わってしまった。いつかまた食べれば分かるのだろうか。

猫の缶と家

スーパーで高い輸入物のクッキーが並んでいた。缶に入っていて、缶には猫が描かれている。

買って家に置いたら、家の机に置いたら、浮くだろうなぁ…と思う。しかしスーパーにあっては別にそういう要素はない。家にはなんらかの色、方向性があるけれども、スーパーマーケットにはそういうものがない(なにせ色々なものを並べていればそれだけよいのだから)。多様だ。人々の消費が多様で、それに対応するから供給も多様で、そのことが自然な状態。良い。

ある一定以上の年齢の家にはモロゾフかヨックモックの缶が必ずあって小物入れになっているものなのだけれど、それが浮かなかったということは、それだけ当時の家の風景は似通っていたのかもしれない。あるいは「モロゾフかヨックモックが浮いている」ということが共通していたのかもしれない。多分今の若者の家に置いたら、似合う家と似合わない家が出てくるだろう。

うちには似合わないので、猫の缶が似合う家の友人を作りたい。

生きている

たまたま、会社を辞めた後輩とすれ違った。横断歩道だったうえに向こうは友人だか同僚だかと一緒にいたので、おっ、となってお疲れ様と言い合ってそのまま別れた。連絡先も交換せずじまいだ。

最後の一点においては勿体無かった気もするが、ああ君も生きていたんだなという実感があった。その日は土曜で、僕は野球の試合がなくなった代わりに色々と予定の候補を立てつつ、最終的に久々に行きたい店でランチでもするかとグダグダしてから家を出たのだった。そしてその店で食べ終わってるから次の予定地に向かう際に「別にこのまままっすぐ進んでもいいが、この横断歩道渡ったほうがあとが楽か」などと考えて足を止めた結果がこれだったので、真に偶然というものだろう。

生きているとこういうこともある、ということが起きている。つまりはそれが生きているということの気もする。

タフネス

知っている限りでは、車で送迎されている役員の方で、社内で資料が読めないという人はいない。つまり、乗り物酔いをしやすい人はいない。

週の中で会食を重ねたりする人も大概健啖家だなと舌を巻くが、どうもこういう、単純なフィジカルの強さがある程度偉くなるのは必要だよなというのは思う。まずそもそも激務だ。

タフネスにステ振りしたほうが良いのかもしれない。しかし今から出来るものなのだろうか。

J.G.バラード2

バラードの「旱魃世界」を読む。ようやく、ようやく分かってきた気がする。初期の「結晶世界」とかと、中期の「クラッシュ」や、後期の「楽園への疾走」とがイマイチつながらないというか、変わらない根があるのか変わり続けたのかが分かっていなかったが、やはり変わらない部分があるなと思えた(初期短編などをわざわざ読んでいたのもこうした疑問のためだったし、正直言うと初期短編は本人の未成熟さもあってますますわかりにくかった。)

結局、人が狂うことと、世界(つまり人類を内包する地球や、そもそも人類に関係なく独自にあり続ける環境や、そうした「方向性をもつ外観」)が壊れることは性質としてあまり変わらなくて、それはどちらも「調整が出来なくなった」「メンテナンスが維持できなくなった」というだけなのだ。その綻びから崩壊までを描くことがバラードの技(業?)だった。ちなみに、そういう意味で「もともと調整の果てにゴミ箱というexitが出来ている」ことにフォーカスしていて、世界は壊れない一方で主人公たちだけが愛の名のもとに世界から緩やかに離れていく、という意味で「クラッシュ」は特別な作品だし、だからこそ(ある種エンタメとして)見やすい部分があるのだろうなと思う。

あらためて、僕がバラードに引っ張られている部分は多い。「思ってたのと違う」未来へ。は世界の調整不足とそれを耐えるための愛の文章のつもりだ。

大浦るかこさんの誕生日(9月26日)

連絡がつかなくなった友というのはいる。もともと連絡先を持っている訳ではなくて、飲み屋の常連で顔見知り程度の人が、会わなくなったりもする。連絡はつかなくなったり、会わなくなったりしただけで、どうやら生きているらしい。

そういう人を「(もはや)友達じゃない」と言うのは寂しい話じゃないか、というのは先ほどの「生きている」の段の通りだし、折に触れて思い出したりしていいし、思い出せる素敵なエピソードや人物像があるのは人生の宝だ。

ミニ四駆をやらないかという話をもらってオウルレーサーにしたり、栄冠ナインクロスロードのエディットキャラにしたり、折に触れるかこさんを思い出し、勝手に生活に呼び起こしているのは、そういう「宝」を残しておきたいからだ(もちろんエゴサしているだろう本人や他の大浦るかこさんのファンに届いたら面白いな、という「連絡がつかなくなった」とは異なる思いが無い訳ではないが、それは副次的なもので、あくまで僕の遊びだ)。どこかで生きていることと、僕の中で生きているということ、両方が「生きている」の段を生み出す。だから後者の条件を残しておかなければならない。

誕生日という「生を受けた日」のあいさつとして。僕は覚えています。お誕生日おめでとう、大浦るかこさん。

小一時間間に合わなかったんだよな、これ。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。