呟きもしなかった事たちへ_No.42(2022年12月号)

※コンセプトは創刊号をご確認ください。ぼーっとする文章が続きます。バックナンバーはこちら索引もあります。

白いシャツ、白い時計、白いカバンで肌も白い痩せた男性が、黒いマスクをしていた。マスクが白いより妙な白さが目立つ。

今月も、呟きもしなかった事たちへ。

チャーハン

中華料理店でチャーハンを頼む。チャーハンと、スープと、ザーサイ、それにスプーンとお箸が付く。

こういう時、自分はお箸を使わない。使えない、かも知れない。スープだけでなくザーサイもスプーンですくってしまう。

だってそうだろうカレー屋で福神漬けだけお箸使う人見たこと無い、と思っていたのだけれど、先日あるカレー屋でアチャール用にとスプーンとは別にフォークが出てきたのでこの論が崩れた。それにそもそもチャーハンの件だって、店は箸を付けてきてくれているし、実際に使っている人も見た事がある。

でも箸を使う気にならない。何故かはわからない。

推し

その対象の未来に向けて全力を尽くしたいと思っていて、人生の全てだと信じる…そしてスケジュールはそれに支配され、そこにお金を使ったり、あるいは写真を撮ったり携帯の待ち受け画面にしたりし、他者との会話はそればかりになる…あまり認識されていないが、子育ては「推し」に近い要素が多いのではないか、と思う。

そういう形での忘我であり、そういう形での信頼であり、そういう形の未来なんだろう。

絶対に負けられない戦い

よく言うけれど、予選ならまだしも優勝決定戦はもはや「絶対に勝ちたい」じゃないのかな、と思う。

ところでタイミング的にこれはサッカーワールドカップの事を指していると思われそうだけど、日本シリーズを見ての感想である。

オロナミンC(のリベンジ)

久々に買ったら開栓時に盛大に溢れそうになった。「なんか溢れてこないな?」と言った創刊号から3年後の事だ。

3年も前のオロナミンCの事なんて書いていないと忘れてただろう。今回「オイオイオイ3年越しのリベンジかよ!」と思いながら慌てて口を付けたのはこのメモのお陰だ。こんな大した事のないメモが人生を彩っていく。

化粧水

40手前の曲がり角なので、化粧水を使い始めた。これで「一気に肌が若返った!」みたいなことを言う30代後半から40代の男性がそれなりにいる一方、僕には一向に効果が現れていない、ように見える。

それもそのはずで、僕は肌の調子だけは良かったのだ。化粧水を使わなくても非常に良好なコンディションを保っていた。今回僕は「良好なコンディションを保てなくなる前から」化粧水を使うようにしたのだから、化粧水は改善をもたらすわけではない。

しかし、これで効果が見えないからと化粧水を不要だと切った時に、その時の老いた自分は化粧水無しでは独り立ちできなくなっている可能性はある。そもそもそう思っているから使い始めた訳だ。効果はある「かもしれない」、そしていつかはは「いつの間にか効果が出始めているはず」だが、結果としてそうした効果は目には見えない。

こういうものを不要だと思って切ってはいけないというのは、会社で学んだ。コーポレート部門とかのコストカットをやって後で困るやつだ。効果が無いように見えてたけれど、本来は維持のために必要だったもの。

カタログ

おかげさまでこの記事が伸びている。

ペースは落としたし記事にするほどたまってもいないけれど、新しいデッキの事は考えているし、古いデッキの手入れも考え続けている。やはりなんだかんだで「きらめき」はカード名としても効果としても大浦るかこさんのデッキに入れたいし、「記憶漏出」や「死の重み」という裏ラジっぽいワードに「潮の虚ろの大梟」があれば黒でるかこさんデッキが作れる。月野木ちろるデッキには「ケイラメトラの恩恵」を入れたくなった。

ずーっとMtGのサイトを眺めていられる。無限に検討が出来て良い。

カタログをめくるという行為はやはり妄想として楽しい。Webショッピングの本質もそうだろう。MtGが例の流行り病以降アメリカで売れたというのが不思議だった(人と会いにくくなったのに人と対面でやるカードが売れる…?)のだけれど、多分デッキで戦う事ではなくてMtGを買う事の面白さがMtGの売り上げを押し上げているのだろうな。

距離感

疲れがとりたくて、安眠できるASMRというものを聞いてみた。この判断をした時点でもう疲れすぎている気はするが、ともあれ、まぁホワイトノイズが心地よいというのは分かる。なるほど昼寝はぐっすり出来た。

しかしそれ以上に頭をよぎったのは、ホワイトノイズ以外の囁きだったり、シチュエーションだったりの距離感についてだ。ハッキリ言ってしまうと、そんなに耳かきされたいか…?という事だ。実際に耳かきをされたいという欲がある人間はどの程度いるのだろうか。しかし多分その欲へのアプローチとは関係なしにASMRとしての強さがある気がする。それは何かという事が気になって仕方がなかった。

考えてみるに、「耳に近い」という事自体が、ちょっと異性としては距離感として近すぎるのだろう。例えば、仮に電車のロングシートに高校生カップルが並んで座っていて、片方がうたた寝しているとする。ここで起きているもう片方が指で相手の頬を突いたら微笑ましいが、これで相手の耳を触ったりしたらもう大変だ(大変だとしか言いようがない)。そういう、シチュエーションに隠された文脈が多分あって、その文脈にホワイトノイズが乗っているというのが「良い」だけで、シチュエーションの表向きの意味そのものが良い訳ではないのではないか、と思う。

分かりにくくなった気がするので別の例を出すと、香水とかがこれに近い気がする。香水自体はいい匂いだ。そこに加えて、「香水の香りがするほど近い」女性という文脈が乗った時、本来は女性が近い事の方が嬉しいのに、「香水付けてる女、良いよね」になってしまうのではないか。補強材料として、そして香水がきつすぎると嫌われる(距離感が破れてしまうと香水の良さが消えてしまう)事も、この話に近い気がする。ホワイトノイズ自体が良い音で、「ホワイトノイズがするほど耳に近い」女性という文脈が生まれた時、ASMRは良いものになってしまう。だから耳かきと囁きまではあれど、音割れするほど近い女性というコンテンツは無いのではないか。

…待った、音割れする女性ってなんだ。怪異か?

革ジャン

革ジャンを買った。デビューである。

おじさんになってきた事の良さの一つに、実は着れる服が増えるというのがあるのではないかと思っている。20代のころ、革ジャンというのは「似合うか、似合わないか」だった。選ばれた体格を持つ人だけが着れる服。それがなぜか、30代後半以降、革ジャンというのは「かっこいい人か、そういう人か」になる。チンチクリンでも「そういう人、いる」になるし、正直かっこよくなくても「そういう人、いる」として見れるものになる。全員、似合ってはいるのだ。どういうスタイルで似合っているかは別として。そういう人間の幅を年齢によって確保してきているのだ。

おじさんになる事で、多分許されるゾーンは増えてきているんだろうなと思う。カッコイイ若者じゃなくなったことで、出来るカッコよさが増えたかもしれない。これはもっと、使っていっていいアドバンテージだ。多分革ジャン以外にもある。遊んでいきたい。


↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。