哲学カフェをする人たちへ〜とあるセクシュアルマイノリティ当事者より

 哲学カフェを主催する人たち、哲学カフェに参加する人たち、哲学カフェに興味を持つ人たち、みなさん、どうか私の話を聴いてほしい。6月16日、哲学カフェという実践は、暴力の姿をとって私の前に現れた。

 まずは、私自身について軽い自己紹介をしておこうと思う。私はLGBTQのQ(クエスチョニング、クィア)にあたる人間だ。同性のパートナーがおり、パートナーシップ宣言を結んで共に生活している。そして、学生時代に哲学対話やNSDについて(ごくごく軽い入り口の部分ではあるものの)勉強したことがあり、哲学カフェについても身近なものと感じてきた。
 
 ※これ以下の文章については、差別に関するトラウマを喚起する可能性があるため、LGBTQ当事者の方は十分注意して読み進めていただきたい。無理、ダメ、絶対。
 
 そんな私はある日、久々に哲学カフェに参加しようと思いつき、呑気にネットサーフィンで場所を探していたのだが、「へえ〜こんなとこでもやってるんだ」と何気なく尼崎哲学カフェの活動予定表を開き、翌6月17日に予定されている問いのテーマを見て凍りついた。
「LGBTQと利権」
 そこにはこうも書き添えられていた。
「普段は疑問に思わないことを取り上げて、お茶でも飲みながらゆっくりと話し合ってみましょう。進行役がいますので安心してご参加ください」
 私の怒りは瞬時に沸点に達した。LGBTQに限らず、マイノリティの属性と「利権」とを結びつけることは、典型的なヘイトスピーチの論法だからだ。そのテーマで安心して何を話せというねん。てか、「ヘイトスピーチしんどいなあ〜」とか「利権利権うるせえなあ…」とか貴方たち普段は全く考えずに生活できるんだ、へえ〜、いいご身分でございますわね羨ましい。
 
 嫌味はこのくらいにしておいて、この時私はこのようなテーマを哲学カフェで扱おうとすることの意図について全く理解できず、困惑していた。この時の私の困惑をありのまま列挙するとこうなる。

・ファシリテーターはこのテーマを見て、あるいは添え書きをみて、LGBTQの当事者が嫌な気持ちになることを想像しなかったのだろうか。
・このテーマを設定した人物は対話の場にLGBTQがいることを想定していないのではないか。
・このテーマでLGBTQ当事者が対話にセーフに参加する方法など存在するのか。
・てかこれ普通にヘイトスピーチじゃない????

 ここで私は一旦落ち着こうとした。もしかして、ヘイトスピーチの問題やその被害の語りについて哲学カフェで扱おうとしているのかもしれない、と。そして、そうだったらそれはそれでまずいだろうと感じた。
 そもそも、哲学カフェは「セーフな対話を経験する」ことに主眼をおくという大前提があると私は認識している。だが、ヘイトスピーチのような、現実に被害者のいる問題を取り上げたとき、そこには明確な緊張状態が生じる。万一差別的な意見が――例えば「LGBTQは利権の塊だから信用すべきではない」だとかの意見が――出てしまったとして、その意見が出た瞬間に発言者を退出させたとしても、ぶつけられた当事者の心の傷や、暴力の事実は消えない。その対話の場はもはやセーフではないし、当事者がそのような事態を覚悟して望まなくてはならない時点で初めからセーフな場になり得ない。参加者がセーフな対話を経験することが実践の目的であるならば、哲学カフェにヘイトスピーチの問題は持ち込むべきではない。
 さらに言えば、センシティブな社会問題を扱う場に求められる性質と、「専門家はいない(いなくて良い)」という哲学カフェの基本的な考え方は、相反すると私は考える。同じ立場の人たちが集まるピアサポート団体や、専門家がいるカウンセリングの場ですら、当事者が声を上げ、語り出すことには大きな勇気がいる。ファシリテーターですら専門家でないような場で、セーフに語れることなど何もないだろう。最悪の事態を想定するなら、ファシリテーターが差別的な人間であり、差別発言に怒りの声を上げたときにつまみ出されるのはマイノリティのほうだった、ということすら起こりうる。
 また、くしくも今、社会は大規模なバックラッシュの時代を迎えている。SNS上では、これまでに辛抱強く積み重てきた倫理的な前提をちゃぶ台返しするような乱暴な問いが乱立し、当事者は雨霰のようにそれらを浴びせられながら生活している。そんな中で、「何も知らない人たち」が、繊細な議論を「答えを必要としない場」に引き摺り出し、「素朴な感覚」で「問い直そうとしている」というのだから、もうお腹いっぱい、である。ある種の倫理的命題は、一度「」(カギカッコ)に入れて問い直すことそれ自体が差別的である場合があると私は考えている。「黒人の命は大切か?」という命題を素朴に問いなおす場が存在すれば、それは暴力の場としてしか機能し得ない。そして、ヘイトスピーチに関する倫理的命題はこのパターンに該当しうる。
 最後に、「LGBTと利権」というテーマの字面自体が当事者にトラウマを喚起させるものなのが大問題だ。少なくとも私は、この字面を見て、私や私の同胞に対して向けられた数々のヘイトスピーチを思い出して戦慄した。SNS上でLGBTQの当事者としてなんらかの発信を行うだけで、「利権を狙う活動家め」(活動家と当事者の線引きをする権力が自分にあると思ってるところがとても特権的な発言だなと思った)だの「偽装結婚で日本を侵略しようとしている中国人め」(これはレイシズムも練り込んだすごい被害妄想だなと思った)だの、誰だよテメーはみたいな赤の他人から訳のわからんリプライがくることを日常的に経験していると、めちゃくちゃ過敏になるものなのだ。一目見ただけでこのテーマはもう怖くてしょうがないから、茶飲み話感覚で扱うなら不用意に目に見えるところに置かないでほしい。

 さて、「もしヘイトスピーチ被害の語りを哲学カフェで扱おうとしているのなら」という前提での、構造的な問題については以上である程度述べられたとして、実際蓋を開けてみればどうだったのかを以下に述べよう。

 私はこの件についてファシリテーターの赤井氏に直接電話で問い合わせた。赤井氏によると、このテーマを設定した目的は「法的な措置を求める際には利権との関わりが何らかの形で発生するものである。それについて考えたいと思ってこのテーマを設定した。必ずしもLGBTQについての法的措置のみが利権と関わると考えてのことではない」とのことであった。
 これに対する私の正直な感想は、まず第一に「やっぱりな」だった。ヘイトスピーチの被害の語りを扱おうとする人間が、「LGBTQ」と「利権」を単純に繋げて併記するなどという無神経な所業を犯すわけがない。
 第二の感想は、「嘘つけ」である。このテーマ設定の背景にあるのがLGBTQへの偏見でなくてなんなのだ。赤井氏の述べることが事実ならば、何故「立法と利権」という形で問いを立てなかったのか?どうしてもわかりやすい具体例が欲しいならば「マイナンバー法制と利権」とでもしておけばいい。よっぽどセーフに、かつ適切な対話ができるだろう。赤井氏が具体的に何をLGBTQの求める「利権」(「権利」ではなく「利権」なのである)だと思っているのかを聞くのはやめておいた。私の血管が切れるかもしれないと危惧したからだ。
 辛うじて血管は切れなかったが、私の怒りは再び大爆発した。「LGBTQ」と「利権」を並列させることの暴力性について「普段は疑問に思わない」で暮らせる特権的な立場の人たちが集まって、私たちのことについて一体何を話し合おうというのか。無知と偏見を増幅し合い、満足しあって帰るつもりなのか。そんなもんは哲学的な実践の現場でもなんでもない、たんなるヘイト集会である。
 私は上記の怒りと問題意識について、わずかに残った冷静さをかき集め、可能な限り真摯に赤井氏に説明した。幸いながら、赤井氏はすぐに理解を示し、対話のテーマを変更することを決断してくれた。しかし、私の懸念は消えたわけではなかった。同じことが今後も起こり続けるのではないかと思ったからだ。
 
 後日私は、赤井氏に再び連絡を入れた。私は、マイノリティのことや、被害者のいるセンシティブな問題は、哲学カフェで扱うべきではないと思う、という話をした。また、これはこの一件だけの問題ではなく、哲学カフェという実践全体の問題、哲学カフェが作り出す場の構造そのものの問題である、とも伝えた。
 これに対して赤井氏は、「哲学カフェに、マイノリティの問題や被害者のいるセンシティブな問題を題材としない、というルールを設けるのは違うと思っている。専門家はいない、答えを出さない、などの、哲学カフェの基本的な性質に沿わない形になったとしても、そうした問題を取り上げる意義はある。それを哲学カフェと名付けるかどうかはわからないが」と答えた。
 じゃあもうほんと、早めに哲学カフェの看板は外した方がいいんじゃない?と思いつつ、他に引っかかるところがあるのでそちらについて考えたい。
 私が真っ先に疑問に思ったことは、その「意義」とは誰のための、そして誰にとってのものなの?ということである。
 いみじくもそれがLGBTQ当事者のためであるというのならば、こうお答えしておこう。哲学カフェのような、あるいは、哲学カフェもどきの何かのような、乱暴で無責任な言説空間で『ありがたくも』取り上げて『いただいて』そこに戦々恐々参加するよりも、ピアサポート団体や専門家のいるカウンセリングに行く方が二千万倍エンパワメントされるしセーフだから余計なお世話だ、と。
 あるいは、哲学実践の未来のために、ないしは哲学者のために、有意義だというのならば、こう問い返そう。他者の実存にかかる深刻な問題を、自分たちの業績や「哲学者ごっこ」の満足感のために利用していいと思っているその傲慢さはいったいどこからくるのか。あるいは貴方たちは、この事例を経てもなお、本気で胸を張って、自分自身の行いが哲学実践だと言えるのか。マイノリティを題材にしておきながら、マイノリティのために行われない「実践」に、何の意味があるのか。少なくとも私には、現実に直面しなくて済む特権階級の方々のお遊びにしか見えないから、哲学カフェでLGBTQについては二度と触れてほしくない。

 長くなったが、こと経緯は以上である。私は今回のことで哲学カフェって何なのか、何のためにあるのか、全くわからなくなってしまった。考えて考えてもう疲れたので、代わりに、哲学カフェを主催する人たち、哲学カフェに参加する人たち、哲学カフェに興味を持つ人たち、みなさんに考えてほしい。哲学カフェってなんなんですか?????
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?