「手が汚れる仕事」を忘れない

エッセンシャルワークと呼ばれる仕事の多くは、必然的に汚れることやケガ、命に係わることがごく身近にあるものが多いようです。
そうした仕事を始め社会には、実際に人に触れ、モノに触れて、事故があれば命や健康の直接的な脅威と向き合う業務に従事するひとたちがいます。
私も育った家は建設業の末端にいる稼業の家でしたので、日々の暮らしがそうした「体を使う仕事」を文化の中心にしていたように思います。
そうした仕事が頭を使わないわけではないので、今から思えば「体 ”も”
使う」という生業に思われます。
社会には、そうした必然的に体を酷使する方々のライフサイクルのために存在するもの、というものもあるものです。

私たちソフトウェア業は、その仕事に従事する上では直接的な身体の危険は少ないものです。またこれまでこの日記でも述べてきたように「目に見える資本の蓄積」もあまり必要としない「機動性(身軽さ)」があります。
ときに「いつも身を危険にさらして仕事をしているひと」「積み上げ、守ってきた資本に依って立つひと」の暮らしに想像が及ばないことがあるのではないか、とわが身を振り返ります。

エッセンシャルワークというくらいですから、私たちソフトウェア屋の仕事も暮らしも、片時もそれらの恩恵を受けないことはないわけです。
実際に手が汚れ体が痛む仕事に想像力を働かせて、共感し、支持することは、決して彼らのためだけではなく私たちのためでもあるわけです。

私たちの事業が社会の中でどういう巡りの中にあるのか、つねに広い視野で見て、忘れないようにしたいものです。

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