仏聖喜劇 vol.1 -諸悪莫作-

昨年引っ越した先の福岡で近所にたまたま臨済宗のお寺があったので昨年の11月から坐禅会に通っている。最初の3ヶ月くらいは隔週。この頃は週に二度、朝5時に起きてお寺で清掃したあと30分二回ただ座って過ごしている。(近所に日本語ぺらぺらのアメリカ人がやっている畳で掘りこたつのかなりアングラな雰囲気のボードゲームカフェを発見したのでそこにも週に一、二度。それが僕の最近の日常だ。)
自分はADHD的な傾向もあるし、かなり身体が硬いので脚も首も背中もお尻も脳もすべてが痛すぎて最初のころは発狂しそうなほど辛かったが(途中で立ち上がって去ろうかと何度か考えたが、まわりで座っているの人への見栄や脚の痺れでそもそも立って立ち去ることにも自信がなかったので何とか耐えた)、近頃はだいぶ慣れてきた。それでも2回目の後半はかなり痛むが。
そこで週に一度坐禅後に仏教用語のお題が参加者(だいたい10人強くらい。たぶん60歳以上の人が多い。自分と同じくらいか年下かなと思う人も少しだけいるが僕は他人の年齢を見た目で判断する能力が著しく低いと思うので自信はない)で出題し、それについて話すという時間が少しありせっかくなので自分もいろいろと考えてみるのだが一癖も二癖もありそうな老人が多く自分は発言してないので、代わりにといってはなんだがすこし書いて整理してみようと思う。

まず自分の立ち位置としては坐禅に通ってはいるが明確に仏教徒であるような意識もなく、「悟りたい」みたいな欲求は特にない。14、5歳頃に好きだったバンド「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」の1stアルバムのジャケットが政府に抗議して炎に包まれたまま坐禅し続けるベトナム人僧侶の写真だったのが強く印象にあり、漠然とした憧れみたいものはそのころからあったことや実家にあったので小学生のころ何十回も読んだ手塚治虫「火の鳥」の影響で「死」について子供の頃からよく考えるというようなことが影響にはあると思う。
極楽浄土や輪廻転生、幸福のようなスピリチュアルや神秘的なことやご利益には特に興味もなく半信半疑。しかし炎に包まれても微動だにせずに座っていられる人がいるので現在の科学的ではない何らかの何か(って何だよ?)のようなものはあるとは思う。麻雀してると運の流れみたいなものが存在してるとしか思えない時がたびたび起こるしね。
仏教の知識についてもおそらく大半の日本人と同じくほとんどない。なので用語や教えみたいなことについては間違いも多いであろうがそれが今の自分の知識であり多くの人もそうであろうと思うので、今の自分がどう思うかということ書いてみようかと思う。
前置き長くなりすぎないように本題に行きたいと思う(というか坐禅に興味をもったことや坐禅をすることによってどう思うかなどは、それだけで一度書いてみたいと思う)。

ティック・クアン・ドックは1963年6月11日、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。wikipediaより。


諸悪莫作(しょあくまくさ)」
もちろん読めないうえに意味もわからなかったのでブリタニカ国際大百科事典で調べてみると「もろもろの悪をなすことなかれ」である。当たり前すぎるし、つまらない道徳みたいで面白くないなというのが第一印象。
悪をなしてはならないというがそもそも悪とはなんなのだろうか。
悪と言われるとほぼ自動的に「善」という言葉を対置させたくなるが、仏教に「不二一如(ふにいちにょ。ことなるふたつに見えるようなこともひとつである、というような意味だと思う。)」というような言葉があるように二元論的な思考から離れるということが自分の仏教に対する現時点での理解であるし、自分が魅力を感じる部分でもある。
坐禅の終わりに毎回「坐禅和讃」というお経を唱えるのだが その中に「衆生本来仏なり」という一節がある。つまりすべての人には仏性が備わっているのであり、殺人のような断じて悪となされるような行為を犯した人にも仏性のようなものが備わっているとされている。ここで言われる悪とは僕たちが想像するような悪ではないのではないだろうか?少なくとも法律的な意味や常識的な意味での悪ではないだろう。
もし仮に対比させるのであれば善ではなく違う単語を置いてズラしてみたり(「笑」とか?笑悪!!)、悪ということそのものをそのまま受け取り考えることが大事なのではないかという気がするが、どうなのだろうか?

余談ではあるがgoogle社のスローガンに「Don't be evil」というのがあるが、もしかして諸悪莫作からきているのかもしれないと思ったが、まあそんなことはどうでもよいがよく似ている。ここでもまた「邪悪とは何か?」と自問しないのであれば「正義を為せ!」という風に書くのではないかと思う。しかしもし仮に「正義を為せ!」だった場合には、自らの常識を当てはめ、他者にも自らの善や正義を押し付けることになったのではないだろうか?
「諸悪莫作。もろもろの悪をなすことなかれ」と消極的に聞こえるかもしれない言葉遣いにはおそらくそういう意図のようなものがあるのだろう。また善とは何かというようなことは自分の中にも仏性のようなものがあるとすれば難しく考えずとも坐禅してれば自ずと見えてくるのではないだろうか。
ちなみに和尚さんは「悪人同士だと喧嘩にならん。善人同士だと喧嘩になる。」とおっしゃってました。※間違っても喧嘩してるから善人だとか考えてはいけませんよ。
春吉一九(坊さんコスプレ名)

最近よく聴いてるコンラッド・シュニッツラー。坊主つながりで(笑)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?