仏聖喜劇 vol.2 -生也不道、死也不道-

今回のお題は「生也不道、死也不道」である。
うーん何だかこれはいかにも仏教ぽいけど(「不」や「非」の否定形や似た言葉の繰り返しだと仏教ぽいと感じる。前回、書いていて思ったけど肯定で考えるより否定で考えた方が、範囲が広くなって思考に広がりや深みが出ることに気がついた。)読めもしないし、完全に何のことだか分からないので調べてみたが少し複雑な話だったのでいきなりわりと長めの文章をコピペさせていただく。

道吾という和尚が弟子の漸源を連れて弔問に出かけた。漸源が棺桶を叩いて、「これは生か、死か」と問うと道吾和尚は、「生とも言わぬ、死とも言わぬ」と言う。何度尋ねても「言わぬ」の一点張り。とうとう和尚は弟子に杖で打ちのめされたという話。生と死は比べられるものではないということ。
考えてみると死ぬということは、生きている者がいうことであって、死んでしまった者には、もはや生も死もないであろう。少なくとも死者にとって生など何の関係もないことだ。そうであれば生きているものにとっても、死など何の関係も無いはずである。しかし、これはよほど死を達観した人にしていえることだ。
 他人の死を見て生きている人間にとって、自分の「死」を経験することはできないが、可能性としては厳然たる事実として、自分にも襲いかかってくるものである。そうなるとむしろ、死から眼をそらさず毎日を生きることが、かえって限りある生を充実して生きる手段であり、「死を見つめて生きる」ことは、洋の東西を問わず哲学や宗教の教えるところ。ここでも漸源にとって、死とは何かが大問題であったのだ。道吾和尚は第三者の死についての議論を粉砕したのであろう。
 死には第一人称の死から、第二人称の死、第三人称の死まである。第三人称の死はいわば他人事である。タバコ屋の婆さんが死んで若い娘さんに代わったようなもので、お婆さんの死はタバコを買う人にとって、店番の交替でしかない。
 第二人称の死は、「お前」「あなた」と呼びあう近親者の死で、深い悲しみを伴う。そのグリーフ(悲しみ)から脱却するには、長い「悲嘆のプロセス」を経過しなければならない。
 第一人称の死、つまり自分の死は経験することができない。「自分の死を、追い越すことはできない」のである。自分の死は、自分のことでありながら、体験できないのである。
 弟子漸源の問いは、第三者の問題である。道吾和尚の答えは、第一人称の問題であって、それについては議論ができないのだ。

臨黄ネットより http://rinnou.net/cont_04/zengo/1411.html

この話では視点の問題が書かれているが、自分が「生でもなく、死でもなく」と聞くと最初に思い浮かぶのはゾンビとAIである。

自転車でよく通るところに話題のドーナツ屋(話題なのかどうだか本当は知らないのだが行列ができているのでそうなのだろうと思っている。自分はあんまりネット見るの好きじゃないので並んでたりしたら何に並んでいるのか見に行くのが情報収集術だ。たいていは飲食店かアイドル関係。)が少し前にオープンしたのだが、ここを通りかかると毎日百メートルも行列ができている。今日も雨にもかかわらず傘をさして並んでいた。そこを通るたびに「まさにゾンビの群れがいるなあ。はたしてどのような顔をしているのだろうか。」と通りざまに眺めているが今のところ並んでいる人たちに共通するようなことは見いだせない。わざわざ休みの時間を使って何時間も並んで過ごす人の心理というものが自分には全く想像もつかないのでよく考えているのだが先日ある仮説を思いついた。自分などは並ぶなんて時間の無駄だと思うので、もし行った先が並んでいたら予定を変えて違う場所に行くと思うが、わざわざ何時間も並んでいる人はもしかしたら「何時間も無料で並んで、お金を使わずに時間を過ごせるなんて、なんてコスパが良いのだろう!」と思っているのではないだろうか?どうだろう?

雨であろうと何時間も並んでいる。これを異常だと思う自分の方が異常なのかどうなのか?


福岡に引っ越してきて屋台にまで行列が出来ていてびっくりした。ふらっと気楽に入って飲むのが屋台の良さだと思っていたので、屋台に並ぶという発想はこれまでなかった。屋台で飲むなんてひとりどのくらいの時間とかも目安もないし、もし飲んでても背中に並んでる人の気配を感じて急かされるなんてまっぴらだけどなあ。なので無料で並んで時間つぶせるのはコスパが良いとか思ってるかもしれないのもあながち検討違いでもないのかも。

まあ、そんなことは自分とは全く縁のない人たちだと思うので何も考えなくても良いとも思うのだが、自分はあんまり他人の考えていることがよく分からず、そのことに多少なりともコンプレックスがあるのでできる限り理解したいというような気持ちがある。多くの人たちのことが分からない世界って恐いですし、たぶん自分のことも多くの人には分からないと思うと時々ものすごい疎外感に襲われることがある。
自分はたぶん小学生の頃から離人症というものなのだが、これの症状が現実をリアルに認識できないというようなもので、症状がでると現実の街の風景も奥行きが感じられず(奥行きは見える)、書き割りみたいに感じるのだが、これが結構つらい。特に悪いことが起こったりするわけではないので他人からはたいしたことないと思うしうまく説明もしづらいのだが、症状が強めにでる時は映画のセットの中にいるような感じがしてきて自分が生きているのか死んでいるのかも良く分からず生きている実感がなくなる。なので今、死んでも50年後に死んでも別にあまり違いもないというような気分になってくる。今は対処の仕方も学び、たまにしかそういう状態にもならず、若い頃のように出方も重くはないのでずいぶんと楽になりました。
しかし「死ぬまで(一生懸命)生きる。」が考えてたどり着いた自分の死生観なので自殺などはしませんのでどうかご心配なく。会ったことある人は分かるかと思うけど(と勝手に思っているが)自分は特にうじうじした陰気なタイプじゃなくてどちらかというと達観したタイプの性格だと思う。老人と小学生が同居した感じの性格だと思っている。やはり死がお題だと(自分で決めたんじゃないですからね)暗い感じになってしまうが自分は死に対しては暗いというか、ただそういうものとして受け入れるという感覚。死や自分のメンタルのことを書くと暗い感じを与えてしまうのではないかと、特には想定してないはずの読者の視点の問題を考えて不安になってしまう。
読んだ人に対して自分をよく見せたいというような意識はあまりないが(そりゃあ良く思ってもらえる方が良いには決まっているが優先順位としては高くはない。そんなことを高い優先順位にしていると人生は虚しいと小学生の頃に正月か何かで親族が集まっているときに人の目ばかりが気になる自分にふと気づいて決意してやめた。もちろん急に辞めれたわけではなく長い時間をかけてだが)出来るだけ不快な感情は与えたくはないなとは思う。もし仮に完全に読者というものを想定しない完全に自分だけの文章というものが あるとしたらどのようなものだろうか。僕は誰にも見せないような日記は書いたことがないので分からないのだが日記の場合も過去や未来の自分や、もし仮に何かのはずみで誰かに読まれたらというような想定で書くのではないだろうか。完全に私的な文章というのは自分の場合はアイデアをまとめる時に書く箇条書きの文や自分にしか分からないような図形とかのメモみたいなものになるのだが。ああ、でもいま書いてる文章は特に構成とか全体の文章の長さは他人が読むことを想定してはいないのでわりとそうなのかもと今思った。
ずいぶんと脱線しましたが、はからずも「生也不道、死也不道」とは視点や認識の問題というようなところに帰ってきたような気がします。

現在という時間は現在と思った瞬間には既に現在ではなくなり過去になっていて現在というものを認識することはできないのではないかということが、昔から不思議で起こる前はあんなに楽しみしていた小学生の頃の遠足や運動会(てるてる坊主もよく作ってた記憶)もいまや遠い過去で今これを書いている自分も死ぬ瞬間の自分が思い出す過去でしかないような感覚が自分にはある。なので生きているのでもなく死んでいるのでもないということは誕生した過去と死亡する未来という収束点として今の自分が既に生も死も内包しているというようなことなのではないかなと思った。
坐禅をしていると雑念や煩悩が浮かんでくるというような先入観があったのだが、自分の場合は煩悩と聞いて真っ先に思い浮かぶようなお金や性的なイメージは今のところほとんど浮かんでこない。「無」になるというのも「禅」の先入観だと思うが、これは僕は特には目指してないし、「無になれ」というようなことはお寺で言われたこともない。代わりに自分がイメージするのは頭頂部から背骨にそってお尻につき抜けるようなパイプだ。これは坐禅をする前から身体に対して持っていたイメージなのだが、これは福岡伸一「動的平衡」に人間の身体はちくわのようなもので口からお尻の穴まで管で繋がっていてご飯を食べて胃の中に入っても胃の中は人体の表面でそこは中なのかそとなのかみたいなことが書いていた。ちくわだとあまりに間抜けっぽいのでセルフイメージではもう少しかっこよくパイプ。ゆらゆら帝国「空洞です。」のジャケットデザインも内容も好きなのでそのようなイメージで頭頂部とお尻で天と地を通していくようなイメージが浮かぶ。考え事や嫌なことなども浮かぶけどただそこを通過させていくだけのような。
人生にはいい時も悪い時もあるけど今はたまたまそういうような状態が発動しているだけで全てはパイプの中を通り過ぎ去っていくだけ。もともとそのような傾向の人生観だったけど坐禅をはじめてからそのような思いは、良いのか悪いのか分からないけれど強まった。現在の自分というのは生から死へとパイプの中を水がながれていく途上のたまたまの収束点。
「空洞です。」の歌詞も聴きなおしてみたらめちゃくちゃ仏教っぽかった(笑)

坐禅中に感じるのは右上のパイプ。

ぼくの心をあなたは奪い去った
俺は空洞 でかい空洞
全て残らずあなたは奪い去った
俺は空洞 面白い
バカな子どもが ふざけて駆け抜ける
俺は空洞 でかい空洞
いいよ くぐりぬけてみな 穴の中
どうぞ 空洞

なぜか町には大事なものがない
それはムード 甘いムード
意味を求めて無意味なものがない
それはムード とろけそうな
入り組んだ路地であなたに出会いたい
それはムード 甘いムード
誰か 味見をしてみな 踊りたい
さあどうぞ ムード

ぼくの心をあなたは奪い去った
俺は空洞 でかい空洞
全て残らずあなたは奪い去った
俺は空洞 面白い
バカな子どもが ふざけて駆け抜ける
俺は空洞 でかい空洞
いいよ くぐりぬけてみな 穴の中
さあどうぞ 空洞

作詞:坂本慎太郎     作曲:ゆらゆら帝国
歌詞の「あなた」を「仏」や「ブッダ」にするともろ仏教ソングっぽい。
”意味を求めて無意味なものがない
それはムード(無道) とろけそうな
入り組んだ路地で仏に出会いたい”

どうでしょう?めちゃ仏教ぽくないですか。本人の人生観や宗教観もしらないし、たまたまだと思いますけど。(一応念のために書いておきますけどたまたま坐禅に行ってるので仏教のこと考えたり調べたりして書いてるだけで急に宗教意識に目覚めたとかじゃないですからね。母親がエホバの証人だったからか若い頃から仏教に限らずキリスト教やイスラム教なども含めてそういう文化や歴史などには興味があって本はちょこちょこ読んでる。信仰心はない。少なくとも救いのようなものは一切求めてないです。いままで全く興味ないような人も宗教のことは多少は知っていた方が映画でも絵画でも文学でも色々と面白く感じれることが多いですよ。)

「空洞です。」のレコードを掛け軸代わりに欲しいなという煩悩が浮かんできたので調べてみたら高かったので買わなかったのだけれど、レコード掛け軸よくないですか。茶道とかでも床の間にお客さんに合わせたレコードを床の間に一枚。僕は今はプレーヤー持ってないしかつて集めてたレコードも全て手放してしまったのだけど、禅ぽい円のジャケのやつを掛け軸だと思ってまた集めたくなってきた。GERMSとovalしか思いつかないのだけど他にあるかな?知っていたら教えてください!

こういう感じにレコードをセットできるようなグッズも作ってみたくなってきた。

「AI」については先日「Chat GPT」を使ってみて衝撃を受けたので人と何時間でも議論したい気持ちなのですがあえてここでは書かないでおこうと思います。非知的なゾンビの方が生物で、知的なAIの方が非生物と思うとおもろいですねえ。では!さよなら引力!!

春吉一九


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