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あなたは光

「この枝はこういう向きで生えていないよね。よく普段から観察して。」
僕の生けた花を見て、まず先生はそう言った。

 4月からお花を習いに行き始めて半年経つ。僕が通っているお花の教室では、毎回その季節に生えている草花が生徒それぞれに7~8種が用意される。大抵半分くらいは知らないものが入っていて、教室が始まるまで水切り(=水の中で茎や枝を切ること、空気を入れず水の吸い上げをよくするために行うもの)を済ませておく。授業が始まると、先生からその草花に関して簡単な説明があったら、そこからは各自が生ける時間だ。用意されている花器から使いたいものを早い者勝ちで選び取り、自分が納得する形で生けれたら提出し、コメントを頂きながら先生に手直ししてもらう、そんな流れで毎回の授業は行われる。そして終了後、授業で使った草花を持ち帰り、自宅で家にある花器でそれに合うものをまた生けるのである。

 僕が習っているのは「なげいれ」というもので、一般的な生け花のイメージであるような流派がある訳ではない。ただ自然な草花の美しさを表現するものだ。以前にも書いたが、所謂生け花というものは剣山を使って、草花を無理やり自分のしたい姿にするイメージがあり、それが暴力的に思えて好きになれなかったけれど、「なげいれ」を知ってから、そんな生け花があるのだ、やりたい、と思ったのだった。

 冒頭の言葉はこの半年で先生に言われた言葉で、一番記憶に残ったものだ。本来枝が生えている向きとは違う形で花器に生けてしまっていたことを指摘された言葉だった。花を生けた場合、正面というものがある。その正面から見た場合の枝の向きがおかしいということである。自分としては、これが正しい枝の向きだと思っていて生けていたのに、普段から木や草花のことを見れていたはずだと思っていたのに、全然分かっていなかったのだ。

 そこから改めて木や草花を観察して生活するようになった。枝はどう伸びるのか、葉はどのようについているのか、葉の向きはどうなっているか、花はどこにあるのか。たまに、教室で知った草花があると、それがより立体的に心に飛び込んでくることに気づく。存在に気付くことで、よりその対象に興味が湧いてくる。

 ある時、なげいれの練習用に満天星(ドウダンツツジ)を買ったことがあった。その満天星は結構生命力が強く、生けた後にもまだ元気そうだから、と自宅の洗面所に別の花器に入れたまま飾っていた。それから特段水の入れ替えをすることもなく、放ってしまっておいた。でも枯れることはなかった。ある朝気付いたら、水に浸かっている枝から根をいくつも生やし、洗面所には摺りガラスの窓があるのだが、その窓から入る朝の光に向かって、枝が、葉が、伸びていることに気付いた。

 何故こんな基本的なことに気付かなかったのだろう、と思った。必死に生きようと光を求めている、ということに。植物は生きるために光を求める。光の射す方を目指して枝を、葉を伸ばす。覆い隠すものがあればそれを避けて。木や草花の自然な姿が美しいと思うのは、その光を探す姿を美しいと思うからかもしれない。人間も植物に似ていると思う。暗闇から出るために、行き先にたどり着くために、穴に落ちないように、一筋の光を求めて人は生きていく。そして、生きるために光を求めている人は美しい、と思う。

 そんなことを考えていたら、先生が言っていたことが自分の心に立ち上がった。自然の美しさを表すために草花を生けるということは、その草花にとって見る人が光なのだと。花が葉が枝が生きようと見る人に向かっている。あなたは私の光です、と。それを対象物自身が表現するなんて、なんて素敵なのだ。また、見る人にとっては生けられた草花が光なのかもしれない。そして、恐らく互いに光を感じている状態が一番美しい状態なのだ、と気付いた。

 多分、それは人間関係でもきっとそうで、誰かが誰かの光になっていて、もう一方の誰かも光を感じている関係があれば、とても素晴らしいと思うし、それが一番美しいと思う。
 
 そんなことを考えながら、最近も花を生けている。

#エッセイ #コラム #なげいれ  

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