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たぶん、すべては、うつくしい

「配った花の中でどれか名前が分かる人?」
いつからか僕の通っているお花の教室の先生は毎回そう聞くようになった。それを聞き出した当初の先生の説明によれば、芒(ススキ)さえも名前が分からなかった生徒がいたという。お花を生けるのに、名前さえ分からないのは、その花を分かっていないということだから、と。加えて、今度、今まで教室で生けたことのある花の中から名前を書いてもらうテストをします、と先生は言った。テストなんて何年ぶりだろう。

お花の教室に通いだしてもう2年ぐらい経つ。教室に行くといつも6,7種類の草花が配られるのだが、通い始めた頃は名前も知らなかったお花がいくつも出てきた。杜鵑(ホトトギス)、紫式部、雪柳、桔梗(キキョウ)、都忘れ・・。今挙げたお花はとても好きなお花のひとつだ。見たことはあるはず、でも名前は分からない、そんな花が登場することも多い。でも見たことはあっても、その美しさには全然気づいていなかった。お花を生けようとするとき、その花のどこが美しいか、どの枝を活かすのか、どの花を活かすのか、そしてその花はどういう姿で自然の中にいたのか、ひたすら考える。合わせて選んだ花器とどうバランスするかも。そして同じ種類の花を何度も生けていくと、同じ種類だとしても、この子はお花のつき方が美しいな、こっちの子はお花はまだつぼみだけど枝ぶりがとても素敵だな、と段々と解像度が上がっていく。そうやって、その種類の花の個々の特徴を見て、美しさを見つけられるようになると、その種類の花の名前は当然のごとく憶えているのである。たぶん先生は皆いろいろな花に対してその状態になって欲しいということなのだろう。

お花を生けるうちに気づいたことがある。そもそもいろいろな種類のお花はあるし、その種類の中でも個々の特徴がある。花器によって、そのお花の特徴を生かして美しくできたり、できなかったりする。たとえパッと見で素敵なお花でも花器によってはそれをダメにしてしまうこともあるのだ。それを踏まえると、たぶん、どんな花であっても、無限の花器が存在するのであれば、その花の特徴を捉えて、それに合う花器を合わせられれば、すべてのお花は美しく生けられるのではないか、といつからか思い始めた。たぶん、それは人であってもそうで、その人の特徴を捉えて、それに合う形で受け入れられれば、その人は美しくいてくれているはずだ。ということはすべてのものは、すべての人は、そもそも美しいはずだし、そうあって欲しいと思う。

最近、生活をしていると「まだ若いから大丈夫だよ」という言葉をよく耳にする。昔は自分に向けられた言葉だったが、最近は他の人に向けた言葉だ。自分はこの言葉を投げかけられて安心したことは一度もないし、ありがたいと思ったこともない。若いというカテゴリーの中で語られる自分は自分ではないし、だから大丈夫って何ら自分を理解してもらった言葉ではない。そして、その言葉を発する人は若くない自分は大丈夫ではない、と宣言しているようなもので、そんな大丈夫ではない人に大丈夫と言われたくもない。そんなことを昔から思っていたのだけど、それが他人に向けられると、やはりその相手を何も見ていないような雑な言葉に憤ってしまう。それを言う人も同じ言葉を投げかけられてきたから自分も言うのが当たり前、とか脳死した状態で言っているのかもしれないけれど、相手をきちんと見た言葉ではないと間違いなく思っている。
年齢とか性別とか国籍とか出身とか学校とか職業とかいろいろと分かりやすいカテゴライズはあるけれどそれを軸に人のことを語られるのがとても嫌いだ。もちろんカテゴライズによって見えてくる傾向はあるのだろうけど、その傾向をベースに人を見てしまったらその人の像はすでに歪んでしまうだろうし、その人が発する言葉や表情もすべて歪んでしまう。ただシンプルにその人の自然を捉えていたい。たぶん、その自然な姿を見つけられることができたら、その姿は美しいはずだから。

「じゃあ、これからLINEでお花の写真を10枚送るから、回答用紙に書き込んで。カンニングしたら破門」
テストがこの前行われた。制限時間は10分。

結果は・・、10点だった(100点満点で)。
学生時代含めてこんなに低い点は取ったことがない。ショックだった。偉そうなことを書きながら、なんにも分かっていない。ダメだ。もっと、いろいろなお花を、いろいろな人を、知りたい、美しさに気づきたい。相手をちゃんと見ないと。たぶん、これは一生続くやつだと思うし、分かったが最後、それ以上の美しさに気づけない気がするから、ずっと分からないまま、いろいろなお花の、いろいろな人の美しさを見つけ続けていたい。そんなことを最近思っている。

#エッセイ #コラム
#なげいれ


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