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ハナおばあちゃん

 早いものでお花を習い始めてから1年が経った。お花をやりだしてからは実家の庭に何かの花が咲きそうになると、母から連絡が来るようになった。実家の花を切り出して生ける練習にできるからだ。ある時は椿が、ある時は水仙が咲きそうよ、というように。ついこの間は、梅の花がそろそろ咲きそうかも、と連絡をもらっていた。ただすぐ実家に採りにいけるほど元気はあまりなくて、実家に行こうとするまで時間がかかってしまった。いつも実家に花を採りに行くときは予め決めて行くのはとても苦手で(過去の自分が今の自分を縛るような気がしてしまうからだ)、その日気分が向いたときに、電話して実家に行った。
 その日も朝までお酒を飲んでしまったあと、さすがにもう梅の花が散ってしまうと思い、母に電話した。もう梅は散ってしまったのよ、という母の声は内容には似つかわしくなく、明るかった。それより今からお父さんとおばあちゃんのお墓参りに行くから、一緒にどう、と誘われ、行くことにした。じゃあ、お寺で待ち合わせね、と母は言って電話を切った。

 祖母は僕が9歳の時に77歳で亡くなった。祖母は元々東十条に住んでいて、その近くの赤羽のお寺にお墓がある。そのお墓は小さいころから何度となく両親と来ているところだ。コロナで久しく行けてなかった赤羽の町並みは、とても懐かしく感じた。そう思いながら赤羽駅からお寺を目指していたら、老夫婦が花を持ってゆっくりと歩いているのが前に見えた。よく見ると両親だった。母も父も背中が丸まっていて、そして母は足を少し引きずり、歩くのが大変そうに見えた。お花を実家の庭から切り出す際、いつも会っていたはずが、遠くから見つめると、二人はとても小さく、歳を取って見えた。
 おどけて急に両親の前に立ちはだかると、少しだけ二人は驚き、不審者かと思った、と父は笑った。
 
 お墓参りをしたあと、そのお寺にベンチがあったので、3人で座った。外で両親とゆっくり話すなんて何年ぶりだろう。当然に祖母の話になった。

 父方の祖母は元々埼玉の田舎の出身で、祖父と出会い、上京をしてきて祖父と一緒にクリーニング店を営んでいた。住み込みの従業員の方も多いときは3名ほどいたという。父は3人姉弟で上に姉が二人いた。時代が違うからだろうが、男ということで父は大層祖母に可愛がられていたという。姉二人は質素な食事なのに、なぜか父は一人だけステーキというような塩梅だ。食べものの恨みはやっぱり深く、二番目の伯母はことあるごとにこの話をしていたのを覚えている。ここまでの話は知っていたのだが、住み込みの従業員の方とも父は朝食のタイミングが一緒だったらしく、食事の差も例にもれず同じで、毎朝自分だけ豪華の食事が出て来るのが、気まずくて困ったよ、と父は漏らした。決して父から食事を豪勢にしてくれと言ったことはなく、祖母が勝手にやっていたという。僕はまだ自分の知らない父の話があったのだ、と少し驚いた。そんな祖母であるが、兄も僕のことも非常に可愛がってくれた。月に1回、祖母は僕の家に泊ることになっていたのだが、その日が来るのが毎月楽しみだったことをよく覚えている。また、祖母の東十条の家に遊びに行くと、必ず小銭を持たしてくれ、すぐ隣の駄菓子屋で買い物をするのがいつもだった。口がめっぽう悪くてすこし癖はあったけど、とても面白くてとても優しい人だった。そんなことを思い出していた。
 
 いつも両親と話す際は、父と母はそれぞれ自分が話したい話をする。その時もそこから母が話し始めた。父と母は二人とも祖母が亡くなった年齢をとうに超えてしまっているが、母は少し前からフランス語を習いだした。僕が生まれる前、父と母と兄はフランスに住んでいた時があって、そのころ覚えたフランス語を死ぬ前にちゃんともう一度学びたかったの、と母は言っていた。習ってみたら、先生が毎回当ててきて、それがすごい勉強になるの、面白いの、と母は興奮しながら言った。
 かたや父は仕事をリタイアしてから、俳句の勉強をし出して、実はずっと前から俳句をずっとやりたかったんだ、と言っていた。その時が来るまで父に創作への思いがあるなんて知らなかった。父は俳句をやりだしてから2,3年で俳句の先生になれる資格みたいなものを取っており、新聞の賞に何度となく入賞している。俳句を作ることは父の生活の一部になっており、いつも最近作った俳句について父は話をしてくれる。父の俳句を聞いただけでは季語(俳句では必ず季語を入れる)含め意味が大抵理解できない。なので、毎度、そんなことも知らないのか、と父は少し得意げに意味を語ってくれる。その時もそうだった。
 思い返せば母は昔エッセイを書いていた。そして僕は最近脚本の勉強をし始めている。そんな話を聞きながら、思いながら、僕がお花や脚本を始めたのは、両親の血なのか、考え方なのか分からないが、この二人の影響を受けているのだな、とつくづく思い、それを口に出した。創作の才能は俺の血で、あきらめの悪いところは母似だな、と父が言った。父の口が悪いところは祖母譲りだ。でも、多分何かを学びたいと思った時が、学ぶべき時だろうし、一番吸収できるタイミングなのだと思う。誰に何を言われようが、どう見られようが。

 今でもお花を生けた写真を時折母に送っている。母はそれを父に見せ、それぞれに意見をくれる。それに対する僕のコメントでほら俺の言う通りだ、いえ、私の言う通りよ、と一喜一憂しているようである。それがとても楽しそうだ。そんな両親であるが、学ぶ気概を持っている以上、まだまだ元気でいてくれるだろう、いて欲しいと思っている。

 そして、お墓参りに行って、ふと気付いたのだが、祖母の名前は「ハナ」である。そこからお花を生けるたびに少し祖母を思い出す。祖母が生きてたら、いい名前だね、おばあちゃん、いつもおばあちゃんを生けているよ、と言えていたのにと思うと、少しくやしい。でも本当にそんなこと言えたとしたら、「そんなにきれいかい、オレ?」と祖母が少し悪い顔しながら笑ってくれるんだろうな。
 そんなことを思いながら、今日もお花を生けている。

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