僕の少数派な面の話、恋愛編

初めて好きになった人は同性だった。正確には"好き"のような感情を抱いた相手、だし生物学的に同性、でもって初めても何も唯一だけれど。
中高の同級生だった。ちょうど去年の今頃高校を卒業してから一度も会っていないので顔を合わせなくなってもう1年経つ。向こうが浪人を選んだという話までしか僕は知らないので進学先も当然知らないし、急に連絡するほどの仲ではなかったし(そうすればきっと答えてくれるだろうけれど)、よほどのことがないかぎり今後会うこともないだろう。

顔も合わせず連絡も取らない1年ちょっとを過ごして、まだ好きか?と問われると、僕は答えを出せない。
彼女に対する感情は同じ学校というコミュニティで過ごしていた頃とほとんど変わっていない。何ら変わっていないと言ってもいいくらい。
だけどそもそも僕の彼女に対する感情を"好き"だと言っていいのかがわからない。自分の好き(かもしれない感情)に疑問をもってもう4-5年は経つけれど、まだわからない。

彼女に出会ったのは中学二年生の時だった。それまでにも挨拶をする程度の関わりはあったけれど。(ちなみに彼女はそのことを全く覚えていないらしい)
最初の最初は特に何も思ってなかった記憶がある。周りの友達と何ら変わらなくて何なら別に仲のいい方に入るわけでもなかった。なんだか普通の友達と違うなと思い出したのがいつだったか正確には覚えていない。だけど話し出してちょっとしてからだったと思う。友人Yの言葉を借りて言うなら、「もっと友達になりたい」。Yからその言葉を聞いたとき自分のかつての感情が的確に言語化された、と思った。(友人Yのことは少しだけ「2024年、やりたいこと100個」の記事で触れている。いずれまたきちんと書くと思うけれど)
この感情ってなんだろうなぁとは幼いなりに、無知なりに、ぼんやりずっと思っていた。無知ゆえにそんなに真剣に悩んではいなかったけれど。そんなぼんやりしたままでなんか変だなぁって思いながらしばらく過ごしていた。

そのうち彼女を含めた複数人で出掛ける機会があった。ただの部活動の行事であって仲が良くて一緒に出掛けたわけでもなんでもない。
その場のなんでもない適当な流れでたまたま僕は彼女の隣を歩いていた。部活動終わりもいつも皆で一緒に帰っていたけれど隣を歩くことはあまりなかった。もっと友達になりたかったけど話せることも特になかったし話に行く勇気も僕にはなかったから。
いつもと同じようにほとんど話さないままそのうち道沿いの店にみんなで入って列は崩れた。店を最初に出たのは僕で、振り向いたら皆がタイミングが合わなくて誰から出るか躊躇していた。言葉にするのがとても下手だけど伝わるかな。あるよねそういうことって。
今でも本当になんでそんなことが言えたのかわからないのだけれど、それを見た僕は適当な理由をつけて隣に来てよ、と口にした。僕のその突拍子もない我儘に嫌な顔もせずにいいよとも何も言わず彼女は当たり前のように隣に来てくれた。
こちらに歩いてくる彼女を見て、本当に自然に流れるように好きだなと思って、直後にああそうか僕はこの子のことが好きなのか、と思った。

衝撃的な気づきでも頬が染まるような高揚を伴う自覚でもなかった。あえて言うならとても静かだった。幼いころにぼんやりと知りたかったけど常に覚えているほどのことじゃない、どうでもよくはないけど別にどうでもいいようなレベルのことの答えに大人になって出会った時のような。
そっかそうだったんだ、って少しの寂しさを感じながら、それを消してしまうくらい安心していた。将来誰かと付き合うとか結婚するとか誰がかっこいいとか何一つわからなかったのはそれでだったんだなって思って。同時に誰かと生きていくことを諦めた。言葉は悪いけど、自分が普通じゃないことはわかっていたし納得していたから。
そうやって好きを自覚した瞬間に諦めたから、すぐに自分の感情には蓋をした。友達で居なきゃと思って、その通り友達に対する感情と変わらない感情にした。元々激しさを伴うものではなかったから大して難しくもなかった。

それがなぜ蓋から浸みだして今も継続する感情になったかというとだが、不本意ながらに言わせてもらうとこれは完全に彼女が戦犯である。
彼女は恋愛だとか結婚だとかに対して何の興味もなさそうな人で、おそらく実際にそうなので周りが盛り上がっていようと彼女自身の考えが口にされることはない。
その彼女が、恋愛や結婚について語る同期たちを横目に、「100歩譲って結婚はしても出産はしたくないな」と適当なことを呟いた僕にしか聞こえない状態で「結婚するとしたら女の子とかなぁ」なんて言うからだ。本当にこれは彼女が悪い。
20年弱生きてきて、僕が人生で一番動揺したのがこのときで多分今後もずっとこの時が一番だと思う。あまりにも僕に都合のいい発言すぎて僕の幻聴じゃないかとずっと疑っている。
彼女はたぶんもうそんなことは覚えていないだろうから確認するつもりもないけれど。

それでも付き合いたいとも隣に居てほしいとも一切思わなかったし今も思わない。ただこの後続いていく彼女の長い人生においてひとつの傷も負わずに幸せで居てほしいと思った。
上手く言葉にできない感情。言葉にしても何かを取り逃してしまう。僕の言葉ではきちんと拾いきれない。
僕ができる最大限正確な表現をするならば、僕の彼女への感情は『52ヘルツのクジラたち』のアンさんからキナコへの感情とちょうど同じだ。あの文章の行間の語る感情をうまく纏めるのは僕には不可能なので、こう言うことしかできない。本当に良い作品なのでよければ是非。

…と、ここまで3月初旬の自分が書いていた。今は?…4月の初旬である。
3月の自分としては、男女別学から共学の大学に進学して、誰かに好意を抱いて恋人を作っていく周りを見ながら自分の感情って恋でも愛でもないのかもな、と思った話をするつもりだった。他の人に対して同じ感情を抱いたこともなければ今後抱くこともないなと根拠も何もないけど知っていたからグレーロマンティックノンセクシャルだと思っていたけれど実際はアロマンティックアセクシャルなのかもしれないな、という。
それがなぜこんな時期まで書き進められず放置されていたかというといろいろな理由がありまして。
まずシンプルにどう書いていいかわからなくて、なんとなくこうじゃないなって気がして書き進められなかったのがひとつ。特に明確な理由があるわけではないし自分でもよくわからないけれど言葉にして書いて形にしてしまうのがなんとなく躊躇われて。形にするのにこんなに時間がかかる時点で、世界にたくさん浮かんでいる好きとは確実に違っても、大切だという感情ではあって、それを好きという言葉で表してもいいのかもしれなくて、なおかつまだ僕の彼女に対する感情は近くにいた時から変わらないのかな、なんて思い始めたこと。
そうやって、まるまる1年間会わなかったどころか連絡も全く取らなくてまだこうならもう一生引き摺っていくしかないな、と寂しいような幸せなような愛しいような不思議な気分で諦めたころに、全くもって不測の事態により彼女の進学先を知ることになった。それも本人からでもなく友人づてでもなく、ある友人が別の友人に飛ばしたXのリプライがたまたま流れてきて、というなんとも言えない知り方である。これが理由の二つ目にしてこの記事を書き進めることを意図的に放棄した決定打。
この話はまた改めていつか書こうと思います。間違いなく長くなるので。

結局この記事で何がしたかったのかというと、僕という一人の人間のひとつの側面を、特定の単語で纏めて簡潔にわかりやすく言うんじゃなくて、纏めてしまえば同じ内容でも、揺らぎも自信のなさも感情の変遷もそのまま生身のまま言葉にしたかった。属性を端的に表す単語で話すことで取りこぼしてしまういろいろなものを溢さずにいられたらいいな、という。その分わかりにくくなっている自覚はあるし、伝えられた自信はないけれど。

結局グレーロマンティックノンセクシャルかなと思ってでもなんとなく完全にはまっていない気がして、アロマンティックアセクシャルかもしれないと思って、でも自分の中にある感情は"好き"とは違っても好きと呼べるのかも、と無限に思考を巡らせながら、結論は出せていません。長い年月を経てずっと出ないままです。出さなくてもいいのかもしれません。多分出さなくていいんでしょう。でも出たらきっと少しは楽になるんだろうなとも思います。ずっと定まらないまま、一時定まってもすぐに揺らいで戻って進んで回って。
でもきっとそういうものなのでしょう。マイノリティだからとか、何も関係なしに、人生って。きっとみんな様々なことで同じようにぐるぐる回っているんだろうな、って。見えないだけで。他人がどう回って迷ってつらいと思っていようが関係ないというのもまた真実ではあるけれど。

そんな実感の中で敢えて、揺らいで潰れて膨らんで、無作為に変わるものだからこそ今の僕の言葉を残しておきます。ただの自己満足で自分のためだけの記録だけれど。

静かに凪ぐ願いのような祈りのような、それを好きという感情だと呼んでいいのなら、きっと僕は彼女のことが今でも好きで、きっとずっと好きなまま生きていくのだと思います。この先一度たりとも人生という道が交わらなくとも、このままずっと離れていって見えなくなる未来と決まっているとしても。誰にも知られぬように幸せを祈り、言葉の追い付かない感情を抱きしめ続けて。

2024.4.10

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?