「男の都合社会」はどう破壊されたか 、のこと

この記事は高橋幸氏の講義への自身の単位レポート「『男の都合社会』はどう破壊されたか」を加筆修正したものです。

目次
はじめに
1章 盤石な「男の都合社会」—革命において—
2章 早く人間になりたーい―第一波・第二波フェミニズムにおいて―
3章 解体される「神話」—第三,四波フェミニズム~メンズリブにおいて—
終章 これからの社会—「男の都合社会」以降のこと—

はじめに
講義を受けていて、私は「女を差別し抑圧する社会の構造」の正体をつかむことができた。しかし、この構造は時代が下るごとに少しずつ緩和されつつあるようだ。それはどのように変化したのだろうか。
このレポートでは、以下の言葉を定義し使用する。


【男の都合社会】
男尊女卑・性別役割分業・家父長制を社会システムの基盤に据える社会。男らしさに価値を置き、男性を社会の主人公に据え主体とする。一方女性は男性のケア、子どもを産む手段であり、男性の支配下・保護下にある、または分配される富としてみなされる社会。近代以降、男性同士は対等な関係にあることを理想とするが、女性は男性に比べて能力が低いあるいはない(家事・育児に向く能力をもつとされる)として男性への従属を義務付けられる。男性同士のつながりの形として欧米(キリスト教圏)では性的関係を女性とのみ結び、それを客体化するためホモフォビアを要素として持つ。一方日本では衆道などに代表されるように性的関係をも含んだつながりを持ち、ホモフォビアは小さい。

【ポスト「男の都合社会」】
フェミニズム、マスキュリズムやジェンダー論研究等本論で述べる要因により「男の都合社会」規範が崩壊したあるいは脱規範化された社会のこと。

第一章 盤石な「男の都合社会」—革命において—
まず、この章ではフェミニズム以前の社会をまず見ていこうと思う。
ギリシャではどうだろうか。民主主義の元祖として名高いアテナイを擁する文化圏である。一般に市民社会と言われるが、実際に市民として自由権を持っていた人間は少数であった。市民は市民とその妻から生まれた男性のみであり、女性に権利はなかった。女性はその子どもとしてめったに外出もせず礼儀作法と家事を習い、嫁に行き家事育児をするだけの存在であった。
中国ではどうか。「幼なれば父に従い、嫁げば夫に従い、老いては子に従う」というのが儒教の教えである。つまり、一生は男性の管理下にあり、男性に従い付属する女性でしかなかったということだ。漢文学には多く「烈女伝」など女性の功績をたたえたものが存在する。女性を存在として描いた点は評価できるが、中身は男性によく仕え、その所有物としての本分を全うしたことを称えるものである。
日本ではどうか。偽経といわれる「血盆経」が到来すると、それまで神聖なものであった月経は穢れた存在として貶められるようになっていった。ただし、日本の場合は時代や地方により女性の扱いにはかなり差がある。昔も今も主婦の地位はかなり高く、男性戸主とともに家をダブルリーダーのような形で引っ張っていく姿も散見される。近代に入り後述する性別役割分業が入り込むことで一時的に男性戸主の下に主婦が位置づけられることもあったが、財産権を中心に主婦の地位は高い。これについては明言を避ける。
キリスト教社会では蛇の誘惑に騙されたイブの故事から、聖書の名のもとに男性に服従する義務を負う。なぜなら、女性はイブのように誘惑に負ける弱くて下等な存在だからであり、また原罪の罰として産みの苦しみと男性への服従を義務付けたからであると説明される。
『女性解放運動の歴史』では、二つの社会構造に大きな影響を与えた革命を取り上げ階級闘争としてのフェミニズムを書いている。キリスト教ヨーロッパ圏各国は近代に入り、自由と平等、友愛が標榜されるようになった。しかし近代においても階級闘争を行い解放されたのは男性であり、女性はその階級に関わらず抑圧されたままであった。
 市民(=男性家長)は個人として独立したが、女性はその市民に服従・奉仕する構造であり、個人・自我を持たない存在であるかのように位置づけられた。男性のケアと労働力の再生産を担い、その名誉や利益はすべてその仕える男性に帰する構造が維持された。二つの革命のうちまず一つがフランス革命である。社会の強者は王や貴族から富裕市民となった。しかし、小市民層・自営農家は家族制度を基盤に生産し生活を維持する性質を手放すことはなかった。彼らにとっては体制を守ることが生活を守ることであるため、むしろ既存の体制を強固化し、一層女性を家の支配に組み込むこととなった。ナポレオン法典はこの状態を法的に固定化し、男性は妻の人格・財産の監督権をもつこととなった。フランス革命は自由、平等を唱えたが、それは男性のものであった。
一方で革命に反対する保守思想をもつボナルドが国においては王、貴族、国民の序列が、宗教においては神、牧師、信者、家においては父、母、子どもの序列を神の定めた序列として近代的家父長制を支持したことは興味深い。フランス革命では、保守革命両派ともに「男の都合社会」を支持していたといえる。
もう一つがイギリスを発端に各地に伝播した産業革命である。これは政治的な革命というよりは、経済的なものである。比較にならない生産力をもつ機械工業の前に、これまでの手工業は大きく衰退した。流れに乗れないものは没落し、旧来からの農家・小生産者は家族制度のもとの生産体制にしがみつくことになる。そこで没落の結果として都市で労働する女性も現れたが、自立どころか家族制度の中よりも悲惨な生活を送らざるを得なくなった。女性の能力は見くびられ男性の仕事を奪うと批判され、男性よりずっと低賃金で  働くか、さもなければ職場から駆逐されるかしかなかったたからだ。
 二つの革命は男性の解放は成し遂げたが、女性を男性から解放することはなかった。かれらの論理は大きく二つに分けられる。そもそも男女は平等ではなく女性は家事と子育てをするために存在する(そして往々にして能力の欠如が主張される)というものと、女性は男性とは別の優位性をもち、それを生かすべきだというものである。前者はルソー、ナポレオン、ボナルドなどが主張し、後者はモアの主張である。モアは男性の優越は神の意志であり、女性が能力を手に入れたとしてもそれは正当ではなく、キリスト教以外の知識も得るべきではないとし、教育の違いを肯定し女性の宗教的優位を説いた。しかし、当時の啓蒙思想的にはキリスト教よりも科学のほうが重要視されていたのではないだろうか。だとすれば、それはしょせん劣位のもの・古いものを女性に押し付けていいものを男性が独占することの正当化にすぎない。また、宗教的優位性を大切な物だと見出すにしても、重大な欠陥が存在する。それは、この教育が女性にも能力があることを証明する手段も失わせることである。本当は男性並みの能力があったとしても発現することを未然に防ぐことで、男性の優位の固定に利してしまう。女性の能力の限界について実験することを否定しながらその結論を出すという愚行である。当時の一般的な男性らの理論では女性よりも賢いはずの男性が女子教育の改革を否定するとしたら、上記のことを論理的に理解できないか、差別のために正当化しているかの二つにひとつである(現代の女性である私がかのロジックを容易に理解しえたというのに!)。そして論理的に理解できないとしたら男性の優越はすでに否定されるし、差別のためだとすればそれは正当性を失う。
これに対しウルスロンクラフトは当時の女性教育を、男性の興味を引き結婚のための教育と喝破し、その結果は無知・無力な女性が出来上がることだとした。この教育では必ず女性は男性に能力で劣り、結婚にしか生きる道を見いだせないとし、教育の改革が女性解放の要点だとした。つまり、もともと女性は男性に劣るのではなく、そう作られてしまっていると主張したのである。
また、空想的社会主義では家族制度の解体により女性の解放と階級闘争の終わりを目的とし、家父長制に代わる制度が論じられた。フーリエは情念により支えられた集団生活を、サン=シモン主義では個人の能力が個人の豊かさを産む社会を理想とし、女性の労働生産については「男女が一体となって完全な社会人となる」として男性の労働生産力を男性のみのものとしなかった。
「男の都合社会」の維持のためには、女性が男性と対等な能力をもつことはあってはならない。それは女性が社会でその能力で変えていくこと、つまり男の都合社会を破壊していくことを可能にするからである。今まで通り女性に家事と子育てか楽しみのための人形でいてもらうには、それに気づかせてはならなかった。とはいえ、フェミニズム以前の時代、革命においても「男の都合社会」は盤石であった。

第二章 早く人間になりたーい―第一波・第二波フェミニズムにおいて―
女性たちは抑圧に気づき、連帯を始めた。「男の都合社会」から自由になるために。自由は参政権を前提とした精神的自由、経済的自由、人身の自由に大きく分けることができるが、フェミニズムの目的は第一波フェミニズムにおいて参政権、教育の均等、経済的自由に基づくそして売春禁止であった。「男の都合社会」に浴びせられた攻撃の最も初期のものは、J.S.ミルの主張する平等の原則に基づく精神的自由のための参政権の要求であった。政治に参加することで自由を得るためのスタートラインに立ち、「男の都合社会」を合法的・制度的に破壊することができるためである。
これに対する反攻作戦としてはプルードンの『革命と教会における正義』があげられる。彼は「男の都合社会」を強く支持し、女性の能力は男性の三分の二であるとし、男女の異質さから性別役割分業を肯定し、その役割を果たすために女性は選挙権を持つべきではないとした。また、ベンサムは腕力による男性の優位を主張した。ここでの腕力とはつまり労働力としての優位性に基づく私有財産を源泉とする。また、ジェイムス=ミルは女性の利益はいつも父親や夫の利益と合致するとして女性参政権を認めなかった。
一方ウルスロンクラフトに引き続いて教育の力で女性の解放を成し遂げようとする動きもあった。教育を受け能力を伸ばすことで女性も対等な能力があることを証明し、自立への道も開かれるためである。教育機関への入学を試験の点数というかたちで優劣を測り、それで合否を決めている以上どれほどの嘲笑や非難をもってしても防御するのはひどくむずかしいものであり、高い能力をもつ女性たちによりその壁は突破されていった。
経済的自由についてはどうであろうか。これに関しては、「男の都合社会」は繰り返し「女性よ、家庭に帰れ」と主張してきた。しかして、これは時代とともに漸減的に女性は社会に進出していった。まず、男性全員が女性を家事と子育てに専念させることのできるわけではなかったのである。とくに下層階級では、そのような悠長なことは言っていられなかった。低賃金で過酷な労働に従事したり、生活の糧を得るため売春せざるを得ない女性はいつの時代にも存在した。彼女らを「男の都合社会」は正しくない女性、見捨てられた存在として扱ってきた。なぜなら、そのような女性は「男の都合社会」の求める女性ではないからだ。ゆえに(男の都合)社会から蔑視され、「伝染病法」などの形でその責任を押し付けられてきた。女性が家にしがみつかずに生活できる手段なしに、この状態を解決することはできないのである。そのため売春禁止、つまり女性が売春せずに生活の糧を得られる状態が要求された。また、戦時中には優秀な兵士の供給のため往々にして国を挙げてキャンペーンが行われた(日本の「皇国の母」やナチスの政策を筆頭に)一方で、戦場に行った男性たちの代わりとして女性たちが労働を担い、そこで女性の能力を証明した。戦争中の人手不足というやむに已まれず行った女性の徴発が、「男の都合社会」の首をのちに大きく締める事になる。
最後に、人身の自由についてはどうだろうか。これについては主に第二波フェミニズムで問題にされた。『女のからだ フェミニズム以後』では第二波フェミニズムを男性医師の管理下からのからだの奪還としている。つまり、「男の都合社会」は女性のからだを自らの管理下に置き、性や健康、妊娠出産についての知識や決定権を独占していた。彼らはどのようにしてその特権を失っていったのだろうか。


第三章 解体される「神話」—第二波フェミニズム~メンズリブにおいて—
リベラル・フェミニズムは女性の身体の自由、つまり中絶や健康管理の権利を「男の都合社会」から取り返した。またその過程で、「男の都合社会」の根拠である男女の違いに疑問を投げかけた。女性にたいする「らしさ」の強要を批判したが、これは男性たちも同様に「男らしく」あることを「男の都合社会」の構成員であるために強要され、そうでない者は「オカマ」「ゲイ」などと排斥される状態に対して疑問を産む母体となった。
 さて、この「らしさ」の檻が男性市民の社会、「男の都合社会」を作り上げてきたということは前述した。なぜこの社会体制は崩れつつあるのだろうか。当然リベラル・フェミニズムの啓発による影響はあるだろうが、それだけであろうか。
  社会において当然のこと、またセクシズムやダーウィンの「種の保存」など科学的根拠に則ったシステムだと信じられてきた「男の都合社会」の根幹である性別役割分業は、なぜ崩壊したのだろうか。後期近代の特徴として、グローバル化、社会流動性、個人化があげられる。そして、この変化は「らしさ」を解体していった。
まず、個人化により家や国のために生きることがすくなくなった。そのため、これまでの性別役割分業よりも、個々の適正にあった仕事や役目を果たし、自己実現をすることが人の人生の目的に沿うようになった。家父長制、男尊女卑、性別役割分業に支えられたイエから、民主的な愛情により結ばれた家族が人々の生活の場となった。民主的な家庭ということは、「男の都合社会」を構成する柱の一つである男尊女卑は合致しない。こうして、「男の都合社会」の柱の一つは崩された。そして、男尊女卑に基づく自動的な権力関係である家父長制も同様の運命をたどった。
社会流動性の向上により、男性が一つの会社に永続的に勤めその妻が家事労働をし、男性ひとりで家族を養うことは難しくなった。これまでは会社に奉仕していれば男性とその家族の一生は安泰であったが、もはやそうではない。性別役割分業に基づく企業戦士と専業主婦という家族形態により得られるインセンティブのなくなった今、それに従う意味はない。こうして性別役割分業も瓦解した。
また、同性愛者を中心とするセクシュアルマイノリティらからも権利運動の過程で批判の声が上がった。彼ら彼女らは男女間で結婚することがないため、家庭をもつことはできない。その上性的主体である男性から客体である女性に向かう恋愛をするわけではないため、そのことについてもホモフォビアという形でこれまで批判されてきた。また、異性愛者であっても社会に出ようとする女性、家庭にいようとする男性に対し役割を全うしていないという批判、逸脱として非難が浴びせかけられる。この状態の原因として性別役割分業はやり玉に挙げられた。
そしてグローバル化により、先進諸国の人々のそういった生き方が「男の都合社会」の幅を利かせる社会にも波及するようになった。例えば日本は欧米に比べてフェミニズムの発達が遅かったと言われるが、外資系企業を筆頭にファーティマアクションや男性育休などの制度が普及しつつある。
医学部の女子差別にみられる男尊女卑・性別役割分業意識やSPA!の「ヤレる女子大生」にみられる女性の性的客体化(写真は雑誌が販売中止となっていたためインターネット上の写真より引用した)など、「男の都合社会」の論理に基づく行動は激しいバッシングを受ける時代となった。現代はもはや「男の都合社会」を受容していないことは明らかである。ただ、批判の多くはフェミニズムの浸透に基づく女性に関するものである。
男性は「男の都合社会」をどう思っているのだろうか。私は男性自身が「男の都合社会」に生きづらさを感じ始めたと考えている。2019年12月、Twitterにて「#もっといっしょにいたかった」というタグが発生した。男性たちによる育児休業を要求するタグである。女性が性別役割分業を離れ社会に進出するのに対し、男性たちは依然として社会に出てよく働くことが当然とされている。しかし、男性たちもまた、性別役割分業を逃れたいと感じる事もあるだろう。「男の都合社会」は女性を社会・生産から疎外し家庭に押し込めることに成功したはずが、むしろ男性が家庭から疎外される状態をつくった。いまや女性が男性と同等に能力を持つことの証明がされ、自力で働き、生きられるようになった。すると労働力・お金を家庭に持ってくる以外の存在価値のみなされなくなった男性は「ぬれ落ち葉」・「亭主元気で留守がいい」などと称されることになる。女性を社会から排除するはずのシステムが、男性を逆説的に社会から排除して作動し始めた。男たちは、働き蜂ではない。人間であると。また、フェミニズムは女性を「男の都合社会」から解放したが、男性についてはそのシステムによる受益者とみなし沈黙した。兵士になることを望む女性が兵士になる権利は獲得されたが、兵士になりたくない男性の訴えはなかなか社会に広がらない。女性であれば性別役割分業から逃れられるが、男性はそうではない。この状態はいささか不平等ではないか。メンズリブ、マスキュリズムはこの状態に対して異議申し立てを始めた。男性が性別役割分業を脱する日も近いだろう。
もはや「男の都合社会」は、その受益者であるはずの男性からは生きづらいと逃げだされ、被抑圧者である女性やセクシュアルマイノリティらからは差別的であると攻撃される内憂外患にある。「男の都合社会」に代わって、これからの社会はどのような論理で動いていくのであろうか。

終章 これからの社会—「男の都合社会」以降のこと—

 現代の社会は性別役割分業をなくし、男女を平等にし、上下関係ではなく個々の精神的つながり、愛情をもって家庭を形成することを推進している。「男の都合社会」の時代には自由・平等、人権意識は男性の特権であったが、現代ではそのSOJIに関わらず自由と平等、そして人権を持つことが当然となった。しかし、いまや問題はすべて解決しようとし、水晶宮は建設されたのだろうか。
 バックラッシュというものがある。「男の都合社会」の破壊を道徳や文化の破壊であるとして批判する声である。「男の都合社会」を過去のものとした先進諸国においても、亡霊のごとく社会が不安定化するたびに「男の都合社会」に立ち返ることこそが解決の道であるかのように宣顕される。その果てにあるものが、ISやタリバンなどテロリスト集団ではないだろうか。彼らは暴力をもってポスト「男の都合社会」を破壊し飲み込み、かつての「男の都合社会」のなかでも極めて女性の地位の低い社会を理想としている。また、激しいミソジニーがみられるのも特徴である。ISの兵士は死ねば神の下にいけると信じているが、女性に殺されるとそうでなくなる。そのため、女性に殺されることをひどく恐れおり、クルド人女性兵士が討伐の大きな切り札となっている。イスラムの教えの名のもとに最大化したジェンダー規範から少しでも外れた女性(教育を受ける、恋愛をする、意見を持つなど)を殺人という形で抹殺し、あるいは異教徒を中心に人身売買という形で奴隷化した。
彼らにとっては厳格にムスリムであり「男の都合社会」に従う「正しい」女性は生きる事を許されるが、そうでない女性に生きる権利はない。よって性別役割分業のもと女性の役割を果たし生きることを許さず、殺すか奴隷化するかということになる。テロとの戦いはキリスト教社会とイスラム原理主義の戦いである一方、ポスト「男の都合社会」対厳格な「男の都合社会」の争いであるのではないだろうか。このような暴力的な「男の都合社会」でなくとも、穏健な形で「男の都合社会」を保つ文化圏は存在する。それに対し、我々はどうすればよいのだろうか。
また、ポスト「男の都合社会」においても、女性への一方的な性的対象化は残っている。それ対して批判が#withyellowなどの形で広がっているが、今だ「被害女性が挑発したせい」や「冤罪の方が多い」「犯罪被害をさけるコストを女性が負担すべき」など、事実無根かつ荒唐無稽な意見があたかも真実のように流布し、「男の都合社会」の要素である男性の女性への性的客体化はいまだ残っている。この根絶や啓蒙はどうすればいいのであろうか。
以上のような「男の都合社会」の残滓への対処も必要だが、ポスト「男の都合社会」の抱える問題として女性の母性機能の問題がある。具体的には生理休暇や産休、育休である。育児は男性も負担を分け合うことはできるが、生理や出産はそうはいかない。現在の主流であるリベラル・フェミニズムでは性差ミニマリズムをとるが、どこまで性差を縮めてもこれだけは残る。また生殖医療という形で女性の意志の名のもとに母性機能が商品化される可能性もある。
ポスト「男の都合社会」の課題は「男の都合社会」文化圏とどう向き合うか、第三派フェミニズムといわれる望まぬ性的客体化の問題、リベラル・フェミニズムの限界である母性機能の問題という三つの問題が残る。それでも、私は現在を「男の都合社会」のころよりはましな社会であると信じている。


高橋幸「ジェンダーと経済 講義レジュメ」第2回~14回、2019年9月~2020年1月
水田珠枝『女性解放思想の歩み』1973年、岩波書店
前田健太郎『女性のいない民主主義』2019年、岩波書店
荻野美穂『女のからだ フェミニズム以後』2014年、岩波書店
https://www.huffingtonpost.jp/2014/10/22/women-fighting-isis-share_n_6026392.html(最終閲覧日2020年1月25日)
https://togetter.com/li/1412624(最終閲覧日2020年1月25日)
https://togetter.com/li/1401981?page=2(最終閲覧日2020年1月25日)
https://www.fusosha.co.jp/news/info/info_article/335(最終閲覧日2020年1月27日)
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&id=CFBFB1015F803492824EE59BA79F1AE3472BD8CC&thid=OIP.ul502Grq2SyfGcZXbbE84QAAAA&mediaurl=https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fmedia%2FDw4B8mlVsAA_Ryu.jpg&exph=451&expw=429&q=%e6%89%b6%e6%a1%91%e7%a4%be+spa+%e3%83%a4%e3%83%ac%e3%83%ab%e5%a5%b3%e5%ad%90%e5%a4%a7%e7%94%9f%e3%80%80&selectedindex=1&ajaxhist=0&vt=0&eim=0,1,3,4,6,8,10(最終閲覧日2020年1月27日)
https://forbesjapan.com/series/paternityleave100(最終閲覧日2020年1月27日)


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