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【エッセイ】かわいいと言われたいけれど、私はかわいいでできてない

最後にかわいい、カッコいいと言われたのはいつですか? 正直なところ私はあまり覚えていません。

それでも書く字の形とか歌い方とか、そんな普段気にも留めていなかったものを褒められたときのことは、なぜか鮮明に覚えている気がします。

今回は、意外と人はかわいいやカッコイイでできていないのではというお話を。つまり、美味しい綿あめの話と誰かからもらった小石に助けられたという話です。

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朝。
起きて、ストレッチをして、お湯に少量の水を混ぜた白湯もどきを飲む。ついでにビタミンCのサプリも一緒に飲み込む。朝ごはんを食べ、着替えて、洗面台の前に行く。乾燥とベタつきの混じる顔をすすいだら、化粧水、美容液、クリームと順番に手のひらでやさしく肌に押し込んでゆく。

長丁場の身支度では、身だしなみが変じゃないかを何度も鏡を見て確認するから、必然的に自分と対面する回数も時間も多くなる。

そうやって何回も何回も、飽きるほど鏡を覗き込んでいると、時折「あれ? もしかすると私って案外かわいいのでは?」と思う瞬間がくることがある。

人は何度も会う人に好意を抱きやすいとどこかで聞いた。それはザイオンス効果というらしい。私が鏡の向こうの自分にときめきそうになるのも、きっとそのザイオンス効果というものが現れているんじゃないだろうか。

それかゲシュタルト崩壊が生じているかの2択だと思う。

・ ・ ・

かわいくなりたい。美しくありたい。人並みかそれより小さじ1.5ほど多めにそう思っている人間が私である。

そんな私には無慈悲なことにかわいい友人が多い。かわいいにも種類があるので、仕草がかわいい、持ち物がかわいい、どこからともなく漂う雰囲気がかわいいなど、"かわいいポイント"は多種多様ではあるものの、シンプルに顔がいい子も沢山いる。

周囲にかわいい人が多いと感じる度、「類は友を呼ぶとも言うし、もしかすると私もかわいいのかもしれない」と何度も思った。それでも「やっぱり私は彼女たちのかわいいには敵わない」とも何度も思った。

・ ・ ・

いつの日か、友人のバイト先に数人で遊びに行った後、「バイト先の人がゆいちゃんのことかわいいって言ってた」という話題になったことがあった。友人のバイト先に遊びに行ったとき、ゆいちゃんは私と一緒にいた。

話を聞いた瞬間、喉の奥が静かに痛む。喉を滑る空気はやけに冷たい気がした。「あぁ、私はなにも言われないってことは、きっとかわいくないって思われたのだろうな」と勝手に心を曇らせた。

すぐに「でも、ゆいちゃんがかわいいのは本当のことだし、友人も別に私がかわいくないと言っているわけでもない。自分が勝手に考えすぎて、落ちこんでいるだけだ」と考え直す。しかし、心は痛み続ける。誰も悪くないからこそより痛みは鈍く、重く、じわじわと広がっていく。

自分の容姿や魅力、そして自信のなさから生まれてくるこの手の葛藤は、いくつになっても長く引きずってしまう。引きずって引きずって、引きずることに慣れていき、そうして次第に忘れていく。

そして日がたったとある頃に誰かに褒められたりして「やっぱり自分もかわいいのか」と思い直し、と思ったら、またなんでもない瞬間に「もうだめだ」と自分自身の手で心を手折ってしまう。私の自信は振り子のように毎日揺れ動く。

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「かわいい」は綿あめのようだなと最近思う。甘くて、優しくて、ふわふわで、なんだか特別だと感じてしまう物。

かわいいと言ってもらえることはもちろん嬉しいし、それが自信につながっているなと感じることだってある。

それでも、かわいいは保存ができない。大事に取っておいても時間が経てばしぼんでしまうし、ほんの少し水を差されただけでベトベトと扱いにくくなってしまう。かわいいはいつまでも同じ形で手元に残ってはくれないのだ。

・・・

自身の魅力に絶対的な自信のない私にとって、この世界を生きていくための道標が、かわいいという言葉だけでは少し心許ない。

では、どうしたらいいのだろうか。たぶん私の道標は、きっと特別なんかじゃなくたっていいのだろう。素朴でも、変な形でもいい。それでも誰かに愛されたものであって欲しい。そう思う。

「丁寧ですごく素敵といわれた歌声」や「達筆だけどクセがあっていいと褒められた文字」、「小さくて赤ちゃんみたいで好きと教えてくれた手のひら」だとか。そんなものが道標であって欲しい。

それはきっと、思わず拾って帰ってきた道端の石ころや松ぼっくりなんかに似ている。私のなかにあったあたりまえ、普段は気にとめないようななんでもないものだけれど、誰かにとっては魅力的なもの。

・・・

正直、自分の顔のレベルや魅力なんて、何年経ってもわからない。チャームポイントもコンプレックスなところも、ふとしたときを境に二転三転するのが"いつも"のこと。

だからこそ、今日も私は誰かから褒めてもらった石を、磨いたり、眺めたりしながら愛しているのだ。それが私を形作っていると知ったから。私がかわいくてもかわいくなくても、石ころはずっと同じように私の手元にありつづけている。


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