【エッセイ】悪い友人たちに愛を込めて
人の不幸を上手く笑えるようになったのは、つい最近のことだ。
先日、友人のInstagramのストーリーに、引越しの原状回復費用が16万円を越してしまったという悲劇の報告が上がっていた。友人は大人数でも、アポなしでも、なんだかんだ許して家に入れてくれる、本当に優しい人だった。
正直めちゃめちゃ笑った。4回見返して、3回声を出して笑った。それでも可哀想ではあるので、帰りの電車で必死に笑いを堪えつつ「しばらくご飯奢ってあげるね」とコメントをした。
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幼い頃から、悪口を言ったり、人をイジリったりすることができなかった。それは道徳的な正義感からとかではなく、単に怖かったからだ。私は誰に対しても、優しい人でいたかった。優しくしていれば、誰からも怒られることはなかったし、責任を問われることもなかったからだ。
正直なところ、悪口を言うことも人をイジることも、別にタブーだとは思わないけれど、センスや技術が問われるものではあると思っている。そして、悪口もイジリも、全員を面白がらせ、幸せにする責任が伴うものだとも思っていた。
「履き違えた悪口やイジリは場を気まずくするだけで、何も生み出さない。それどころか、マイナスになる可能性の方が高い。ならば、悪口やイジリを上手く言う練習をするより、普段から言わないようにする方が簡単に平和なはずでしょ。みんなもそうすればいいのに。」
そう思っていた私が、大学で夢中になった友人は信じられないくらい口の悪い人だった。今も昔も、私は彼女に首っ丈だった。
本当に彼女はとてつもなく口が悪かった。悪口もさらりと言う人だった。それでも、その代わりにいいと感じたものに対しては真っ直ぐに褒める、気持ちの良い人でもあった。
彼女の口から出る言葉はいつも鋭く、美しく、そして愉快なものだった。
ときに、マンションの入り口で動かない猫を怖がり、家に帰れず困った際は、猫に向かって「ここは人間界だから人間の方が立場が上だ」と猫に対してそんなこともわからないのかとマウントを取りながら悪態をついていたこともあった。
そのとき私は、なんて愛らしい人なんだと大いに笑った。
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彼女と仲良くなってから、私の言葉に少しだけ悪口やイジリが加わるようになった。なんだか、少し悪い人になったような気がする。それでも、あまり悪い気はしなかった。
悪い人は悪い人でも「理性のある悪い人」はかっこいいと思うし、意外と人畜無害な人よりも、ちらりと毒っ気のある人の方が魅力的だったりする。
誰かのどうしようもない不幸も、一緒に悲しむより、悪態をつきながら笑い飛ばしてくれる方が案外楽になれることもあるのではないだろうか。
少し悪くなった私に誰かが救えるのならば、これ以上に喜ばしいことはない。もしそうであるならば、私はいつまでも鋭く、美しく、愉快な悪い人であり続けたい。
以上、私よりすべての愛すべき悪い人たちに愛を込めて。
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