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【読書メモ】ACC課題図書『赤毛のアン』(+『アンの青春』)

(全部で4,000字程度です)

ACCと『赤毛のアン』


 ACC (アーティストチャイルドクラブ)の課題図書『赤毛のアン』を読み終わりました。

 ACCって何?と思われた方はこちらをご参照ください(ACCの実質的な世話役であるあやのんさんのマガジンです)。
 人形と遊びながら自分の中にいる子供(インナーチャイルド、アーティストチャイルド)の声に耳を傾ける活動です。note界に数名の会員がおります。

 『赤毛のアン』はルーシー・モード・モンゴメリが1908年に発表した小説(続編も書かれ全部で11巻あります)。
 カナダのプリンス・エドワード島が舞台。孤児のアンが、マシュウとマリラの初老兄妹に引き取られてからの5年間が描かれた物語です。

 この小説がなぜACCの課題図書になったのか。
 それはACC会員のひとりであるまりりんさんが、この物語を「マリラがアンを通して自分のインナーチャイルドに目覚める物語」として解釈したことが発端でした。

自分の中にいる小さな女の子の声を聴かないようにして、ひたすら真面目に正しく生きてきたマリラが、感受性豊かな妖精のようなアンに出会って、自分の中の小さな女の子に気が付いていく、、その自己変容の物語に思えてくる。

まりりん さんのnoteより

 そういう捉え方もあったのか、とACCのメンバーはコメント欄で盛り上がり、『赤毛のアン』を読み直してみようということになったのです。

 これは、あくまでもACCの観点から書いた感想文です。部外者には「なんのはなしですか」な内容も含まれますことをご承知おきください。
 実は私はACCに入会したばかりで、ACCというものをあまりよくわかっていません。例えば「アーティストチャイルド」と「インナーチャイルド」に違いはあるのか。「アーティストチャイルド」は内なる子供のことを指すのかそれともそれを投影した存在まで含めるのか。そういったことをちゃんと理解しないままこの文章を書いています(個人的には「アーティストチャイルド」と「インナーチャイルド」はほぼ同義ながら、より創造的な志向を示す場合に「アーティストチャイルド」というのかなと考えています)。
 以下ネタバレあります。邦訳は各種出ていますが、私は村岡花子訳の新潮文庫で読みました)。

『赤毛のアン』をマリラの物語として読む


 私が『赤毛のアン』を読むのは小学生以来です。大人になってから読むとずいぶん印象が違います。

 子供の頃はアンの視点でしか読んでいませんでしたが、マリラとほぼ同じ年代になった私はやはりマリラに感情移入してしまいます。
 年齢が上がるにつれ涙腺がゆるくなる。マリラが成長したアンを見て「なにか失った気がして妙に悲しく」なったり、アンが小さかった時のことを思い出したりして涙を流す場面などはもう貰い泣きが止まりません(このあたり、お子さんがいらっしゃる方はもっと共感するのではないでしょうか)。

 質素倹約を重んじるマリラは、華美な服装を嫌います。アンに最初にこしらえてやった洋服も「もし、この中のたった一つだけでも、ふくらました袖にしてくださったら」と文句を言われてしまうくらい地味すぎる。それが最後は、誰からも頼まれないのに、装飾たっぷりの美しいドレスをアンに贈るまでになります。
 着るものへのこだわりを罪深いものと考えていたマリラが、アンにすてきな服を着せてやりたいと思うようになった。アンと過ごすうちにマリラの女子的な感性が引き出されたわかりやすい例かと思います。

 アンへの愛が芽生え、それを自覚するようになるマリラ。しかし、マリラは「どうしても愛情を言葉や顔にあらわすことができない」性格です。

こんなにまでも人間をひたすらに愛するのは神への罪になりはしないかと不安な気持ちをさえ覚えて、神第一の信心ぶかさをアンのほうへ奪われている罪ほろぼしのような気で、わざとアンにきびしく当たってみたりした。

『赤毛のアン』

 宗教心もアンを愛したいという気持ちを抑え込んでしまっているようです。相当なものです。
 だからこそ、マシュウの死のあと、マリラがアンへのいとおしさをストレートに語るところは、たいへん感動的です。マリラの中のインナーチャイルドがこれまでになく解放された瞬間だったのではないかと私は思います。

アンの成長


 一方、主人公のアンといえば、とにかくよくしゃべる子供です。自分の空想を誰かに話さずにはいられない。しかも、過剰なくらい芝居がかった話しぶり。表現力豊かなアンに、マシュウ・マリラ兄妹をはじめ周囲の人々は魅了されていきます。
 アンの欠点といえば、空想に夢中になるあまり、目の前のことすら手につかなくなってしまうのと、侮辱されたことに対する反発が頑なすぎること。例えばアンの赤毛をからかったギルバートは「石盤を真っ二つ」にするほどの力で殴打され、以後5年間口をきいてもらえないという仕打ちを受けました。

 そんなアンも、やがて成長します。
前よりも口数が少なくなったことに気がついたマリラがわけを訊ね、それに対してアンは次のように答えます。

わからないわーあまり、しゃべりたくないのよ。

『赤毛のアン』

それになんだかもう、大げさな言葉は使いたくなくなったのよ。そういう言葉を使ってもいいだけの大人になったのに使いたくないなんて残念なことね。だんだん大人になるのは楽しいにちがいないけれど、すこしあたしの期待にはずれたところもあるわ。

『赤毛のアン』

 受験勉強にしても、アンがよい結果を出したいと頑張るのは、ギルバートへのライバル心や「努力のよろこび」を覚えたゆえもありますが、一番の動機はマシュウやマリラを喜ばせたい、ということ。自分を慈しんでくれたふたりに精一杯報いようとします。

 アンの成長はすてきなことです。しかし、空想したことをとめどなくしゃべり続け、納得のゆかぬことに意地を張り通していた子供時代のアンはもはや過去のものになってしまいました。なんだかアンらしさがなくなって優等生になってしまった。そのことが私には少し淋しく感じられました。おそらくアンは大人になるにつれ、「自分の中の子供」を封印していった。そのように思えるのです。

 アンは奨学金を得て遠くの大学に進学することになりましたが、終盤、物語は急展開します。兄妹が全財産を預けていた銀行が破産し、マシュウが亡くなり、マリラが失明のおそれがある眼病にかかっていることが判明するのです。
 アンは進学を取りやめ地元の学校に教員として就職する道を選びます。それならマリラを支えていけるとの判断でした。その選択に、アン自身「犠牲を払った」という意識はなかったと思います。

 ただ、ひねくれ者の私は「アン、ほんとにそれで良かったの?」と思ってしまいました。大学で文学の勉強をするというアンの夢はここで断ち切られることになります。
 相手の幸せを考えてこのような決断ができるアンは優しい娘です。そういう人の「内なる子供」ほど、無意識の奥深く閉じ込められてしまうのではないか。というのは考え過ぎでしょうか。

アンの中の内なる子供 


 アンの中に「インナーチャイルド」がいるとしたらそれはどういう形であらわれるのか。その興味から、続編も読んでみようと思いました。シリーズ2作目『アンの青春』を図書館の児童書コーナーから借りてきました。字が大きめで老眼の私にも読みやすいと思ったのです。
 実は私は小学生の時にこれを読もうとして途中で挫折しています。今読んでみてわかったのですが、アンの子供時代を描いた第1作と違い、児童文学とは言えないストーリーです。ひらがなが多く少なめの漢字には全てルビがふってあって一見子供向けですが、体裁と内容のギャップが大きすぎます。少なくとも作中のアンの年齢(17歳前後)以上でないと、小説としての味わいはわからないのではないでしょうか。

 『アンの青春』は、アンが新米の教師として過ごした2年間の物語です。
 学校では、はじめは思うようにいかず苦戦。生徒を育てる中で、アンも生徒に育てられていきます。校外では青年会みたいな組織で地域の美化に取り組んだりしている。初々しくも社会人ぽくなってきます。
 家ではマリラが、親を亡くした遠縁の子供(双子)を引き取ります。アンはその養育にもかかわり、男の子のやんちゃぶりに手を焼いたりしている。

 そんな中、アンは教え子のひとりと深く交流するようになります。アンがここに引き取られてきた時の年齢と同じ年頃の少年で、人並み外れた想像力がある。空想の物語を語って聞かせる様子は昔のアンを彷彿とさせます。
 アンのインナーチャイルドを目覚めさせるとすればたぶんこの少年だろうなと思いながら私は『アンの青春』を読んでいました。
 実際、本の後半になると、数は少ないですが、アンのセリフに夢想的な表現が出てきます。

ちょうど、ステンドグラスごしに、やわらかな光のみなぎる大寺院のなかで、『年』がひざまずいてお祈りをしているようね。 

『アンの青春』

まだ、もとの世界へもどれると思って、ダイアナ?もうじき、魔法にかけられたお姫様のいるお城に出ることよ。

『アンの青春』

 久々の「アン節」。アンは「アーティストとしての子供」を失っていなかったのだなあと思わせる場面でした。
 その後、アンは感性豊かな中年女性と知り合って意気投合。類は友を呼ぶものですね。アンの「アーティストチャイルド」が引き寄せたのかもしれません。

アンの進学問題

「どう?大学へ行かれそう?
「さあ、わからないわ。」
(中略)
「もし、がっかりするといけないと思って、あまり考えないことにしているんです。」

『アンの青春』

 アンは知人から進学について訊かれてこのように答えています。やはり大学に行きたい気持ちは残っていたのです。
 その希望はある日突然叶えられることになりました。
 マリラの眼病は思ったほど悪くなかったことは少し前に判明していたのですが、資金のめども立ったし、未亡人になった友人と一緒に暮らすことにしたからアンは心配せず大学に行けとマリラがいうのです。
 マリラは自分のためにアンが進学を諦めていたことをとても気にかけていて、なんとでも大学に行かせてやりたいと準備していたのでした。
 第1作の終わり方にはなんとなく割り切れない感じもしていましたが、続編で救われて、読み手の私としては「ああよかった」という思いです。

 アンのシリーズはまだまだ続きますが、ACC会員の高木氏が作者のモンゴメリの日記も面白いというので、そちらも読んでみようと思っています。

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