今、一番、気になる連載は、これ(↓)
呉智英(ごちえい)さんと糸井重里さんの『論語』に関する対談だ。
これを読んでいて、ちょっと論語を読み直してみようかなと思っている。呉智英(ごちえい)さんと糸井重里さんが言う、読んだことがないわけでも、ちょっと読んでおもしろくないと放り出したわけでもない。
日本、東洋の起源にこうした思想が流れていて、ここをおさえれば、だいぶ世の中の見通しがよくなるぞ、と10代、20代の時に考えて、時々、開いていたつもりだった。
でも、お二人の会話にある、弟子とのエピソードに記憶にないものがあって、いまでも癖にしているように、読みたいところをちょっとかじってわかった気になっていたんだな、と、連載がはじまってから、一人、顔を赤らめているところだ。
そして、論語とその訳を読んでいただけで、解釈書を読んだことがほとんどなかった。原典にあたることも大事だけれど(読んでいた本も、一つの訳であり、解釈なので、原典ともいいがたい)、それをどう解釈するか、何通りも読んで、咀嚼する必要があったはずだ。
誰もが実現できることを一通りの正しい説として提供して、一通りにしか解釈できないような本なら、こんなに長く、読み継がれたりはしないし、いろんな解釈本なんて出てないはずだ。
数年前、大河ドラマで、渋沢栄一が主人公の『青天を衝け』を放送中に、ちょっとだけ渋沢栄一の『論語と算盤』を3分の1ほど読んだっきりだ。
登場する『論語』に関する本を少しずつ手に取ってみたくなっている。今、SNSで、自分に直接関係のないことで、怒りの感情にあふれ、それで気分を害したり、焚き付けられたりすることが多い。
社会にも、人間関係にも、いつも怒ってばっかりの孔子先生。でも、この人の傍になら居たいと、孔子の弟子たちが思ったように、怒りつつも、「ではどうあればいいのか?」「どう考えればいいのか?」「どう行動すればいいのだろうか?」そんなことを考える材料にしたい。
でも、10代の時、20代の時、確かに読んだ記憶があるから、この連載について、驚いたり、頷いたり、できているのだと思う。あの頃の自分をダメなやつなんて言わず、中年の自分を立て直す、ナイスプレーだったと褒めてやりたい。
さて、紹介されていた本、どれから読んでいこうかな。