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歌集『カミーユ』で気になった11首

短歌をはじめた2019年、当時評判になっていた現代短歌の歌集の一つとして手に取った。久々に読んでみて、やっぱり解釈がわからない歌が多かったが、気になった歌は当時とあまり変わらなかった。言葉のリズムが特に好きになるものが多くて、空白、読点(、)の使い方も、リズムを生むためにいい働きをしていて、最近の短歌では必須の条件となる、漢字とひらがなのバランスもいい。

気になった短歌について、ちょっとずつ感じたことを書く。

気になった11首

春のプールの寡黙な水に支えられ母の背泳ぎどこまでもゆく

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

母の背泳ぎがうまいというはずなのに、素直に褒めてあげてない。プールの寡黙な水に支えられてるから、母は難なく進むのだ、と。しかも春のプールなんて言うと、夏にはうまく泳げない可能性まで残してる。支える水が、「寡黙な」そして「春」のプールの水、という特徴とも呼べない特徴、理由とも呼べない理由で、スイスイと泳ぐ母というのがおもしろい。

あ、あれはむかしわたしの掌じゃないか蛍を潰す余白なき愛

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

蛍を潰してしまうのは、自身の子どもだろうか。「むかし」「わたし」というひらがなで書かれてあることの幼稚さ、「昔の私」という表現からも、自身の子どもなんだろう。好きなものを捕まえる、というまっすぐで混じりけの無い情動は確かに「余白なき愛」と呼んでもいいかもしれない。この短歌にひらがなも多いが、四句目「つぶす」ではなく「潰す」と縮めた文字数が、余計に、余白のなさを感じてしまう。上手。こんなことを自分の詠む短歌でもしてみたい。すごく上手。

わたしにはたったひとつのそらだからどんなかさでもくるくるまわせ

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

全部、ひらがなの短歌。空に向かって傘をまわすのは理解できる。やったこともある(大人になってからさえも)。傘で遊びたい感じ、新しい傘の感触を確かめたい感じ、傘を回すシチュエーションは理解できる。もし、どこまでも広がる空が、独り占めできるのなら…、あるいは、視界に見えているだけが空で、それが自分の空であるなら… もうどんな傘だって空に向けて回すしかないかもしれない。「空」と「傘」がとても自由な感じがする。漢字がないことによって、窮屈さを感じない。

紫陽花はさわると遠くなる花で(あなたもだろうか)それでも触れる

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

紫陽花の花言葉は「移り気」「無常」「浮気」だそう。色が変化することから、そういう花言葉になったらしい。とらえどころがないものというイメージなのかもしれない。さわると遠くなるような儚さを持った花、触らずに見ているほうがいいのに、それでも、興味を持って近づいて触れてしまう。花に触れる(ように)あなたにも触れるという表現は、人によってとらえ方に違いがあるだろう。それを詠み手に許しているところがおもしろい。そして「さわると遠くなる」には儚さ以外にも意味があるのかもしれない。そう思うともう少し、深みのある短歌なのかもしれない。

馬の背は光に濡れて 来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

一つの短歌に、動詞は少ないほうがいい。たぶん3つでも多い。でも複数の動詞をたくさん並べると、映画のコマ送りのように、シーンが動く。盗賊が街を襲っているのだろうか。名詞でも、形容詞でも、あるいは、他のシーンを動詞を並べることで、短歌に仕立てられるかもしれない。映画のコマ送りのような短歌を同じように、そのうち作ってみよう。

一度だけ低い嗚咽は漏らしたりごめんわたしが青空じゃなくて

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

嗚咽「を」ではなく、嗚咽「は」がひっかかる。助詞の使い方がおもしろい。青空くらい広く、明るいわたしなら、謝ることがなかったのだろうか。私なら、意味と場面を区切るのに、「漏らしたり」と「ごめん」の間に空白を入れる。でもたぶん空白はないほうがいい。情景やシチュエーションがわからないけれど、立ち止まってしまった歌。

狂い飛ぶつばめの青い心臓が透けてわたしに痛いのだった

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

すごい勢いで、あるいは、きりもみするように飛ぶ鳥を見たことがある。そんなスピードで飛ぶ鳥の心臓が見えるわけもないと思うが、狂い飛ぶつばめの小さい心臓、薄い皮の下にある心臓を感じることがあれば、きっとその動悸の速さが痛いという気持ちはわかるかもしれない。

かわるがわる松ぼっくりを蹴りながらきみとこの世を横切ってゆく

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

松ぼっくりじゃなくても小石でもいい。子どもと交互に蹴りながら進む。微笑ましい。前に進むのではなく、この世を横切るというとらえ方がおもしろい。成長や目標に向かったいくのではなく、世界とは別に、親子の関係や空間が先にあるというのが、世界と親子関係としてすごくいい。

夕闇のなまあたたかさいっぽんも歯のない口のなかにいるよう

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

なまあたたかさを伝えるのに、こんなに絶妙な表現があるとは!
湿度があって、でも、ベタベタとも違う。ぬるぬるとさえしてそうで、そして、暑さそのものをぬぐうこともできない暑さが確かにある。歯の無い口の中にいるという表現がほんと絶妙。

全身できみを抱き寄せ夜だったきみが木ならばわたしだって木だ

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

「抱き寄せた夜」ではない、「抱き寄せ夜」。黙って受け止める、反応しない、相手が木なら、自分も同じように木として、向き合うのか。あなたが反応しないなら、私だけがんばって抱きしめることをやめるのか。わからない。「抱き寄せ夜」「わたしだって木だ」が印象的。

感情がいま釣り鐘のように重い 錆びながら、もっとかがやきながら

『カミーユ』©2018 大森静佳/ナナロク社

気持ちなんてものは、人によりまちまちだ。怒り、かなしみ、であれば想像もできるが、「感情」といってしまっては、それが何を指すのかわからない。でも確かに重い感情というのは存在する。重くて、動かしがたくて、だから、置き去りにされた気持ちは、時間をかけて錆びていくのかもしれない。錆びながら、でも、輝いていく感情というものが理解できない。重い感情をめくった後に、感情の中身が強く主張をしていくのかもしれない。

全体の感想

短歌は、具体的な物や情景を詠むことで、イメージしやすくなることが多い。でも『カミーユ』の短歌は、状況がイメージできない、とらえどころがない歌が多い。でも、目に留まってしまう。意味もわからないのに、漢字とひらがな、読点(、)、空白の使い方が絶妙だと感じでしまう。どうやれば、こういう歌が詠めるのか想像もできない。またしばらく置いてから、読み直してみよう。来年か再来年かもっと先。次、読むときには、もう少し歌のおもしろさの仕組みが理解できますように。


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