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桜のない隅田川には、何が咲いているのか。

二か月ぶりに歌会に参加しました。

本日、持ち込んだ歌はこちら。

桜なき三月末の隅田川に祈り咲かせに酔客の涌く

「三月末の隅田川、桜のないにも関わらず、酔っぱらいがたくさんいる」状態のことでしょ、と言われましたが、その通りです。

実際の情景を元に作りました。今年は、桜が例年通りに咲きませんでしたね。三月の末日、隅田川の川っぺりの桜の木々には、つぼみしかありませんでした。それでも、花見のために空けた予定は変えられないんでしょう。隅田公園には、酒を飲む人が溢れていました。

近くに住むものとしては、騒がしいだけでなく、散歩道もゴミも増えるし、いつもゆるゆる歩いている道が混雑で歩きにくくなります。正直、虫が「涌く」ように、人が涌いてるという嫌な気持ちがありました。冷静に見ると、不思議な光景です。桜も咲いていないのに、木の下に集まって飲んでいるんですから。「桜よ、咲いてくれ」という祈りしか、その場にないんじゃないか? という感情から、この歌ができました。

歌会の参加者の感想は、
・「祈りが咲く」って何?
・「どんな祈り?」
・「酔客が固い」漢文みたい
・「隅田川に」 の "に" はいらない
・ネガティブな "桜なき" から始まらなくてもいい
みたいに、あまりいい評価は得られませんでした。

いいコメントとしては、三句までのテンポがいい、という評価もありました。でも「隅田川に」 の "に" は、いらないそうです。

短歌を作る時、助詞の扱いには、いつも悩まされます。定型の五音、七音に収まらなくても、なかなか削れません。無理に削ると、無理やり定型に収めた感が出てしまうし、意味が通じにくくなります。

推敲の過程

最初は、これでした。

桜なき三月末の隅田川に咲く願いだけで酔客の涌く

「祈り」じゃなくて「願い」でしたね。

ChatGPTに歌の評価を質問してみたところ、こんな回答がありました。

短歌の魅力は、少ない言葉で深い情景や感情を表現する点にあります。
あなたの短歌はすでに素晴らしい情緒を持っていますが、さらに深みを加えるために、いくつか提案させていただきます。

季節感の強調: 「桜なき三月末」は季節感を漂わせますが、「桜散りゆく三月末」のように少し手を加えることで、桜の花が終わりを迎え、春の終わりが近づいていることをより強調できます。

「咲く願い」の描写の深化: 「咲く願いだけで」は美しい表現ですが、「願いだけ咲く」と順序を変えることで、願いが唯一咲く花であるかのような強調ができます。また、「願いだけが咲く」とすることで、願いが具体的な存在として際立つようになります。

「酔客の涌く」の表現の転換: 「酔客の涌く」は情緒豊かですが、「酔客夢を追う」とすることで、酔客たちがただ集うのではなく、それぞれの夢や願いを追い求めている様子を描けます。

改変案:
「桜散りゆく三月末の隅田川に、願いだけが咲き、酔客夢を追う」

この改変案では、季節の移ろいとともに散っていく桜と、それでもなお願いを咲かせ、夢を追い続ける人々の姿を描いています。もちろん、これは一つの提案に過ぎません。短歌は作者の個性や感性が最も大切な要素ですから、自分の声や感じた情景を大切にしてください。

コメントや改変案はそのまま受け入れられませんでしたが、この提案を見て、そっか、花は咲いてないのだから、他のものを咲かせればいいんだ。と思い立ちました。だって、本来、何か咲いてるから、集まるのですから。

そこでこんな変遷をたどりました。

桜なき三月末の隅田川に願いだけ咲き酔客の涌く

桜なき三月末の隅田川に願いを咲かせ酔客の涌く

桜なき三月末の隅田川に願い咲かせた酔客の涌く

で、最後に提出した歌がこれです。願いは個人的なもの、祈りはもっと広いイメージから、祈りに変更しました。

桜なき三月末の隅田川に祈り咲かせに酔客の涌く

いただいたコメントを見て感じることは、咲かないものを咲かせようとすると、そのための説明や、誰もが共通する、咲かせるもののイメージを補助することが必要ということですね。

その他

他の方の歌の中に、「弥生尽(やよいじん)」という言葉がありました。三月の末日のことをこう言うのですね。私は、三月末、という言葉しか知りませんでしたが、俳句の季語らしいけど「弥生尽」は五音だし、どっかで使ってみたい、と思いました。

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