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老害

「老害」という言葉は好きな言葉じゃないから、使わないし忘れてた。
それでも、自分が無駄に年を重ねて「老」の文字に近づいて、他人事ともならぬ年になったのも事実。わたしも、そう言われてる可能性はあるだろう。

わたしは若い時、今よりもずっと生意気だった。今は生意気というのは、若者の特権だと思っているけれど、当時は何も考えずに、先生や先輩や上司に盾を突いて嫌われたりしながら、相手の器の大きさを測ったりしていた。それは、必ず順番が回ってくる。

50歳を過ぎると、自分は変わっていないつもりでも、周りの見る目は変わる。同年代のともだちが、どんどん社会的に偉くなって行く事は誇らしいことで、ガンガン出世すれば良いと思っている。けれど、若かりし頃一緒に安酒を煽って社会批判をしていた友人が、年を重ねるごとに、嫌悪した人達と同じような振舞いをした時、それは本当にやるせなく、悲しくなり、自分もそうなってはいまいかと振り返り、そして「なりたくない大人」になってしまって気付かないともだちは、「かつての友人」となって、わたしの言葉は届かず、語り合うこともなくなってしまう。寂しさと小さな怒りが、わたしの胸の中を、ゆっくりといつまでも這いずることになる。

「バカって言ってくれる人を大事にしなよ」と、わたしの口から言わせた友人は、今はわたしから離れて「すごいですね」の渦に酔っている。それも仕方ないのかもしれない。わたしとて、自分の理解者ばかりが自分を取り巻く事を望んでいるけれど、年齢や性別や肩書き等気にせずに、対話が出来なければ意味が無いと思っている。綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、本当にそう思う。

叱ってくれるともだちは大事にしたい。「ばかだな」や「だめだよ」の言葉は、ありがたい。知らない事やわからない事や、間違っている恥ずかしい自分から、逃げるよりはいい。

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