誰も僕を知らない世界へ 映画『ある男』感想

映画『ある男』は人の心の奥底に眠る漠然とした居辛さをあぶり出した

人間関係に不満があるわけでもない。
それなりに楽しく暮らしている。
それでもふっと、誰も今の自分を知らないどこか遠い場所へ行って、新しい人生を始めたくなる。

私はそんな願望が時折心をよぎる時がある。
大抵、人間関係や仕事に疲れ果てた時だ。
結局それは、軽い不平不満から逃れたいだけの戯言にすぎないのだけれど。
ある意味、SNSを使えば至極簡単に今の世ではそれを叶えることができる。
小さなデバイスの中では、リアルの自分とは別人でいることもできる。各々のコミュニティによって分けられた、いくつもの自分。
今現在も私は、ペンネームを作りこうして身近な誰も知らない自分を楽しんでいるわけだ。
でも、そんな擬似的な別人格で満たされるのなら、それはまだ幸せなことなのかもしれない。

もし、リアルの自分でいることに耐えられない苦しみを抱えてしまったら?

映画『ある男』は、夫と離婚し郷里で家業の手伝いをしながら一人息子を育てている里枝が、大祐という男と出逢うところから始まる。
のちに2人は惹かれ合い、再婚し、子どもにも恵まれる。しかしその幸せは束の間で、大祐は仕事中に事故で亡くなってしまうのだ。
彼女を襲う不幸はそれだけではない。悲しみもまだ癒えぬ一周忌の日、初めて対面した大祐の兄から、遺影の写真の人物が弟とは別人であると告げられる。

一体夫は何者だったのか? 自分は誰と結婚していたのだろうか?

里枝は、かつて離婚調停で世話になった人権派の弁護士、城戸に夫の身元調査を依頼する。

物語は、本物の大祐と、大祐を名乗っていた里枝の夫『X』、そして在日コリアン三世である城戸の内面を深堀りするように進んでいく。
そして城戸は二人を追う内に、自らのアイデンティティについて見つめ直さざるを得なくなる。
戸籍ブローカーとして逮捕、収監されている小見浦から在日であることを揶揄する屈辱的な言葉をかけられ徴発されたことがきっかけになったのだ。
人は、自分が自分であるという事を完全に証明できるのか?
自分は一体何人なのか。なぜこんなに居心地が悪いのだろうか。
城戸がずっと抱えていた問題だった。

戸籍に記載された名前を持ち、公的な証明書を持っているというだけで、本当に自分であると証明できるわけではない。城戸は、日本人としての公的な証明を持つにもかかわらず、日本人として扱われない苦悩を抱えている。
小見浦は言う。「私が小見浦だとどうしてわかるんですか?」と。
まるで城戸を小馬鹿にするように言い捨てる小見浦を、城戸は汚いものを見るように睨みつけた。

次第に明らかになる『X』の悲しい過去。
彼にはどうする事もできない理由で、自分を主張する事すら許されない人生を送り、そして捨てた経緯。
老舗旅館の息子として生まれながら、何故か姿を消し他人に名前を譲った大祐。
城戸は、そんな『X』と本物の大祐に、次第に自分を重ねていってしまう。

『X』と大祐がしたことは、本来許されるべきことではない。ただそこには誰にでも逃げたくなるような、全てを捨てて新しい人生を歩みたくなるような事情があった。(本物の大祐に関しては、それほどの苦悩は映画の中では描かれていなかったように感じた)
こと『X』に関しては、この立場に自分が置かれたら確かに同じ道を選びたくなるのではないかと思う。
過去にもさまざまな作品で、彼のような立場に置かれた人間の苦悩が描かれてきた。
大抵が、救いようのないものだった。
ひたすら耐え、我慢し、霞のように掴んでは消える幸せを必死でかき集めるような人生。
『X』はそれに耐える事ができなかった。別人の人生を歩み、やっと手に入れた人並みの幸せを、苦しんだ時間より遥かに短い時間しか過ごせなかった彼を想うと本当にやるせない。

城戸に関してはまた別の、当事者にしか理解し得ない居た堪れなさを妻夫木聡さんは見事に演じていたと思う。切なげな表情の中の、怒りと諦めを含んだ瞳を見て胸が痛んだ。

多様性を認めよう、あらゆる差別をやめよう、という流れが生まれてから久しい。
ただ人がそれを実践するには、いくつかの要素が必要なのだと思う。環境や教育、報道などの外的要因はもちろん、そのうちのひとつとして、個人の心のゆとりも大きく影響するのではないか。
これを認めても自分に何も悪い影響が起こらない自信や安心がある、そんな意味のゆとりだ。
何かを認めることで自分の存在が脅かされたり、平安が乱されると感じると、人は拒絶したり、自分とは違うと差別し、安全圏にとどまろうとする。
『X』や城戸はそういった意味で差別される側に置かれ続けてきた。
彼ら自身には何一つ非はなくとも、出生や置かれた環境により分け隔てられてしまう残酷さがあった。

私には、日本に帰化した友人がいる。
彼はすでに20年近く日本に住んでいるが、顔を見ただけで外国人だと言われる事にうんざりしているという。
彼は、国籍を取得していればもう日本人だという考えであるが、日本人はどうも見えない血筋で考えるきらいがある、と言うのだ。
「でも君が本当に日本以外の血筋が入っていないかなんて、普通は説明しないでしょ?」というのだ。
よその国では外見で判断しあなたは何人か?なんて聞かないのだという。(それは彼の主観であるから、本当に外国で聞かれないかどうかはわからない。私は、あるかどうかもわからないアジア人差別が怖くて外国に行くのを躊躇うような気の小さい人間なのだ。)
彼の言うことは確かに理解できる。
ただ、正直に言ってやはり私は、何某かの理由で日本国籍を得た人と、そのままこの国で生まれ育った人では感覚的に別だと思ってしまうのだ。
この『思ってしまう』感情につける言葉を差別だと言われると、それも違和感がある。
異質だからと排除したいわけではない。
でも、される側の人間の気持ちに寄り添うことができるのか、完全に理解できるのか、といえば当事者でない限り難しいと思うのだ。知識を得て、理解を深め、長い年月を経て価値観を再構築していく必要があるのだと思う。
とはいえ、ひとつの言葉に拘らない歩み寄りは双方に必要ではないかと感じているから、この問題は難しいし私の中で永遠の課題だ。

中盤、里枝の息子が「僕の苗字はまたかわるの?」と投げかける。
苗字もまたアイデンティティのひとつの形であるから、彼もまた居心地の悪さを感じるひとりとして描かれているのが印象的だった。

映画を最後まで視聴し、城戸のある選択について深く考えさせられた。どんなに裕福でも、社会的に立派な職業についていても、心の奥に刻まれた生きづらさは消すことができない。
これは、城戸も『X』も大祐も、どこにでもいる、誰もがなりうる、『ある男』の話なのだ。

映画『ある男』は私にとって、差別とは何か、心の奥底に潜んだ居心地の悪さの正体はなんかのか、そんな漠然と答えのない問題を、もう一度自分の頭でしっかり考えろ、と投げかけられるような作品だった。


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