ナチス第三帝国と地下王国アガルタの秘密の関係
COBRAの2024年8月4日の記事「Dragon Activation」で紹介された記事「The Nazi Connection with Shambhala and Tibet」を翻訳しました。
※翻訳がお気に召しましたら、記事下部からサポートをお願い致します🙏
”崑崙山脈のすぐ南のチベット高原に主要拠点のあるネガティブなアガルタネットワークもあり、地球上のあちこちに小規模な基地ネットワークをもっています。このネットワークの中核は、26,000年前に惑星地球にやってきたネガティブなアンドロメダ人で、現在はチベット北部のごく小さな仏教僧院の地下にある巨大な地下基地に存在しています。彼らはさらに、別の宇宙からやってきた極めてネガティブな少数の生命体によって補強されました。彼らはオカルトに精通しており、地球周囲の非物理面をある程度操作できます。彼らはラーカーと密接に協力しあっています。彼らはヒトラーを支持していました。”
元記事
Dr. Alexander Berzin 17:17
はじめに
ヒトラーをはじめとするナチス政権高官、特にヒムラーとヘスは、秘教(オカルト)にのめり込んでいた。そのような信念に後押しされ、ドイツは1938年から1939年にかけて、チベット政府からの招待に応じ、チベットのロサル(新年)の祝賀行事に公式遠征隊を派遣した。
チベットは長い間、中国からの併合の圧力と、イギリスからの侵略に苦しめられていた。スターリン率いるソ連は仏教、特にチベット国内と外モンゴルで厚い信仰心を持つチベット仏教徒を厳しく迫害した。一方、日本は満州国の傀儡国家として併合した内モンゴルで、チベット仏教を保護していた。大日本帝国政府は「シャンバラは日本だった」と主張することで、モンゴル人たちの支持を得ようとしていた。外モンゴルとシベリアに侵攻して、日本が主導する大モンゴル連邦を作るために。
チベット政府も不安定な情勢から逃れるため、日本からの保護を得られるよう苦心していた。1936年、日本とドイツは反共産主義条約を締結し、国際的な共産主義の広がりに対する共同戦線を敷くことを宣言していた。ナチス・ドイツからの公式訪問団の招聘は、このような背景から行われた。ところが1939年8月、ドイツがチベットに遠征した直後、ヒトラーは日本との盟約を破棄し、ナチス・ソビエト条約に調印した。9月、ソビエトは5月に外モンゴルに侵攻した日本軍を撃退した。
その後、日本とドイツがチベット政府と接触することはなかった。
戦後、オカルト作家たちが、この時のドイツとチベットの公式接触には仏教とシャンバラ伝説が深く関わっていると主張している。
トゥーレとヴリルの神話
ナチスの秘教への最大の関心といえば、ハイパーボリア・トゥーレ神話の地である。
プラトンがエジプトの伝説を引用し、アトランティス沈没に言及したように、ヘロドトスもまた、北の果ての秘境ハイパーボリアに関するエジプトの伝説に触れている。古代文明が栄えた土地が氷河のせいで住めなくなり、人々は南方へ移住したという。1679年、スウェーデンの作家オラウス・ルドベックは、アトランティス人とハイパーボリア人は同一であるとし、「ハイパーボリアは北極のこと」と主張した。他の説を挙げると、ハイパーボリアはトゥーレ島とウルティマ・トゥーレ島に分裂していたとされ、それらが現在のアイスランドやグリーンランドであるという。
ナチスの2つ目の関心が、「地球空洞説」だった。17世紀末、イギリスの天文学者エドモンド・ハレー卿は史上初の地球空洞説を、「地球内部にはひとつの中心核と二層の中空の球核があり、それらが空気を挟んで隔てられて浮かんでいる」として提唱した。その後、1864年にフランスの小説家ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』が出版されたことで、多くの人々が地球空洞説について想像力をかき立てられた。
「ヴリル」の概念が初めて登場したのは、1871年、イギリスの小説家エドワード・ブルワー=リットンは『来るべき種族』の中で、ヴリルという超能力で世界を征服しようと企む優れた種族であり地底人の「ヴリル=ヤ」を描いた。フランスの作家ルイス・ジャコリオは、Les Fils de Dieu(神の子)(1873年)とLes Traditions indo-européeenes(インド・ヨーロッパの伝統)(1876年)で、この神話の説得力を増した。
これらの本の中で、彼はヴリルとトゥーレの地底人を結びつけている。トゥーレ人はヴリルの力を利用して超人となり、世界を支配する。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)もまた、超人(Übermensch)の概念を強調し、その著作『反キリスト』(Der Antichrist)(1888年)の冒頭で、「自分自身をありのままに見よう。本当の我々は超人だ。ハイパーボリア人である。既定路線から外れてもいいのだ」と述べている。ニーチェはヴリルに言及することはなかったが、死後に出版された格言集『力への意志』(Der Wille zur Macht)では、超人へと進化するために内的なエネルギーを働かせることの重要性を強調している。人は「群れる」ことで道徳やルールを作り、自分自身の安全を確保しようと努力する。だが、超人には内的な生命力によって庶民を超えようと駆り立てる原動力があるのだという。ただし、その力は、「群れの精神性」から独立して自由を確保し続けるために、群れに対して嘘をつく必要があるのだと主張している。
最初期のインド独立運動家バール・ガンガーダル・ティラクは著書『ヴェーダの北極圏』(1903年)の中で、トゥーレ人の南方移住をアーリア人種の軌跡と同一視するなど、さらなる考察を加えた。こうして20世紀初頭のドイツ人の多くは、自分たちがハイパーボリア人、つまりトゥーレから南下してきたアーリア人の末裔であり、ヴリルの力によって超人のマスター種族になる運命にあると信じるようになった。ヒトラーもその一人だった。
トゥーレ協会とナチ党の創設
古ノルド語エッダのドイツ語翻訳者フェリックス・ニードナーは、1910年にトゥーレ協会を設立し、続く1918年、ルドルフ・フライヘル・フォン・セボッテンドルフがミュンヘン支部を設立した。
セボッテンドルフはそれまでイスタンブールに数年間住んでいたが、1910年になると秘教スーフィズムとフリーメーソンを融合させた秘密結社を結成する。十字軍時代に栄えたイスラム教イスマーイール派の「暗殺教団」ニザーリ派に根付く思想を持っていたという。
イスタンブール滞在中、セボッテンドルフは1908年に始まった汎トルコ運動である「青年トルコ人運動」にも出入りしていたことは確定している。第一次世界大戦中、トルコとドイツは同盟関係にあった。ドイツに戻ったセボッテンドルフは、1912年に反ユダヤ主義の秘密ロッジを匿う右翼団体として設立されたゲルマン騎士団(チュートン騎士団)のメンバーでもあった。
こうした経緯を経て、トゥーレ協会には暗殺、大量虐殺、反ユダヤ主義の信条が根付くようになっていった。1918年のバイエルン革命後には、反共産主義がミュンヘンのトゥーレ協会の要素に加わり、反革命運動の中心となっていった。
1919年、協会はドイツ労働者党を生み出した。その年の暮れから、トゥーレ協会の中心人物の一人であったディートリッヒ・エッカートがヒトラーをトゥーレ協会に入門させ、「アーリア人はヴリルを利用して超人類を生み出す」という仮説を吹き込んだ。ヒトラーはウィーンで秘教と神智学を学んだ若い頃から、神秘主義的な考えに傾倒していた。後にヒトラーは自著『我が闘争』を、エッカルトに捧げている。1920年、ヒトラーはドイツ労働者党(ナチ党)の総統となった。
ハウスホーファー、ヴリル協会、地政学
ヒトラーの考え方に大きな影響を与えたもう一人の人物は、1904年から1905年の日露戦争後、ドイツの軍事顧問として日本へ武官として派遣されたカール・ハウスホーファー(1869-1946)である。彼は日本文化に非常に感銘を受けていたため、後の日独同盟は彼のおかげだと多くの人が考えている。彼はまた、インドやチベットなどの東方の文化にも強い関心を持ち、サンスクリット語を学び、チベットを訪れたこともあるという。
第一次世界大戦で将軍大尉として従軍した後、ハウスホーファーは1918年にベルリンでヴリル協会を設立した。この結社はトゥーレ結社と基本的な信条を共有しており、トゥーレ結社の近縁とも言われる。協会は、地底にある超自然的生命体との接触を求め、そこからヴリルの秘力を得ようとした。また、アーリア人の起源は中央アジアにあると主張した。ハウスホーファーは地政学の教義を発展させ、1920年代初頭にはミュンヘンのルートヴィヒ・マクシミリアン大学の地政学研究所の所長となった。地政学は国際社会において権力を獲得する手段として、より多くの生存圏(ドイツ語でLebensraum)を得るために他国の領土を征服することを正当化した。
ルドルフ・ヘスはハウスホーファーの愛弟子である。ヒトラーが一揆の失敗で獄中にあった1923年に、ハウスホーファーをヒトラーに紹介した。その後、ハウスホーファーはしばしば将来の総統のもとを訪れ、トゥーレ協会やヴリル協会の思想と結びつけた独自の地政学を教えた。こうして1933年に首相に就任したヒトラーは、アーリア民族が東ヨーロッパ、ロシア、中央アジアを征服方針として地政学を採用したのである。だがその本当の目的は、アーリア人の祖先の地「中央アジア」でヴリルの秘密の守護者を見つけることであった。
卍
鉤十字(スワスティカ)は古代インドにおける宇宙不変の幸運のシンボルである。「スワスティカ」は、幸福や幸運を意味するサンスクリット語svastikaの英語化である。ヒンズー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒によって何千年もの間使われたこの象徴は、チベット仏教徒の間でも広まった。
実は、鉤十字は世界の他のほとんどの古代文化にも登場している。ナチスが採用した反時計回りの変形については、中世北ヨーロッパのルーン文字の「G」に由来している。フリーメイソンにとっても重要なシンボルであり、彼らにとって「G」は神(God)、宇宙の偉大な創造主・建築家、または幾何学(Geometry)を表す。
鉤十字はまた、古ノルド語の雷神(スカンジナビア神話のトール、ドイツのドンナー、バルトのペルクナス)の古来のシンボルマークでもある。この雷神との関連から、ラトビアとフィンランドは第一次世界大戦後に独立した際、空軍の記章として鉤十字を採用した。
19世紀後半には、神秘主義者グイド・フォン・リストがドイツにおける新異教徒運動の紋章として鉤十字を採用した。しかし、ドイツ人は卍というサンスクリット語を使うのを好まず、代わりに "鉤十字 "を意味する "ハーケンクロイツ "と呼んだ。ネオ・ペイガニズムがキリスト教を打ち負かし、取って代わったように、鉤十字も十字架を打ち負かし、取って代わったのである。
復興異教主義(ネオペイガニズム)運動における「反キリスト教的感情」を扇動したトゥーレ協会も、ハーケンクロイツをエンブレムの一部に採用し、円の中に縦長のドイツ短剣を重ねた。1920年、トゥーレ協会のフリードリッヒ・クローン博士の提案で、ヒトラーはハーケンクロイツをナチ党旗の中央に添えるデザインを採用した。ヒトラーは、対立する共産党の赤い旗に対抗するため、背景色に赤を選んだ。
フランスの研究者ルイ・ポーベルとジャック・ベルジェ共著『魔術師たちの夜明け』(Le Matin des Magiciens, 1962)の中に、ハーケンクロイツをナチ党の象徴にするようヒトラーを説得したのはハウスホーファーと書いている。その推測の根拠となるのは、「ハウスホーファーがインドやチベットの文化に関心が強いため」だという。ハウシュホーファーがヒトラーに会ったのは1923年。しかし、ナチスの旗が初めて登場したのは1920年である。どちらかというと、インドとチベットに鉤十字が広く知られていたことを証拠に、中央アジアこそがアーリア人種の起源とヒトラーに確信させたと読み解ける。
ナチスによる対立するオカルト集団への弾圧
1920年代前半、ドイツではオカルト団体や秘密結社の間で激しい対立が起こった。後年、ヒトラーは人智学者、神智学者、フリーメーソン、薔薇十字団に対する迫害を続けた。様々な学者が、この政策はヒトラーが自分のオカルト的支配に対抗する他のオカルト的ライバルを排除したかったからだと述べている。
ニーチェの著作やトゥーレ協会の信条に影響を受けたヒトラーは、キリスト教はユダヤ教思想に根ざした欠陥宗教だと考えた。赦し、弱者の勝利、自己否定といった教えを反進化的なものとみなし、自らを神とキリストに代わる救世主と見なした。シュタイナーは反キリストとルシファーのイメージを、キリスト教を新しい純粋な形で再生させる未来の精神的指導者として用いた。ヒトラーはさらにその一線を越え、自らを世界君主アーリア人種として、世界からあらゆる退廃的なものを排除し、進化の次の段階へと推し進める存在と考えたのである。その過程で、ヒトラーは他の反キリスト教的な思想を容認できなくなった。しかしながら、仏教に対しては寛容だったことは特筆すべき点だ。
ナチス・ドイツの仏教
1924年、仏教に造詣の深い医師パウル・ダールケは、ベルリンのフローナウにヨーロッパ初の仏教寺院を設立した。寺院はあらゆる仏教の伝統に門戸を開いていたが、当時西洋で最も広く知られていた上座部仏教と日本仏教を主な対象としていた。
1933年には、第1回欧州仏教徒会議が開催された。ナチスは戦時中、仏教の存続を認める一方で、厳しく監視もしていた。仏教徒の中には中国語や日本語が話せる者もいたため、仏教を容認する見返りに、彼らは政府の通訳を務めたという見方もできる。
ナチス政権は、1936年から活動していたベルリンの仏教会を閉鎖し、1941年には創設者のマルティン・シュタインケを短期間逮捕したが、仏教徒を迫害することはなかった。釈放後、シュタインケと他の数人はベルリンで仏教の講義を続けた。しかし、「チベット仏教」を教える教師が第三帝国に存在したという証拠は残っていない。
よって、ナチスの仏教寛容政策は、仏教がヒトラーやナチスの思想に影響を与えたことを証明できない。どちらかというと、仏教徒の多い日本との関係を壊したくないというドイツ側の意図があったのだろう。
アーネンエルベ
ハウスホーファーの影響を受け、ヒトラーは1935年、フレデリック・ヒルシャーに、ヴォルフラム・フォン・シーヴァース大佐を局長とするアーネンエルベ(祖先の遺産)の設立を許可した。ヒトラーはこの局に、ゲルマン文字のルーン文字と鉤十字の起源を研究し、アーリア人種の源流を突き止めることを課した。チベットはこの研究における最も有望な土地だった。
ハンガリーの東洋学者で西洋のチベット学の祖であるアレクサンダー・チョーマ・ド・ケーレス(1784-1842)は、ハンガリー人の起源を非常に熱心に探求した学者だ。ハンガリー語とテュルク諸語の言語的親和性に基づき、「ハンガリー人の起源が東トルキスタン(新疆、新彊)、つまりウイグルの地にあると考えた。チベットの古都ラサに辿り着けば、そこに祖国を探す鍵があると信じていたが、志半ばで病死した。
ハンガリー語、フィンランド語、テュルク諸語、モンゴル語、満州語は「ウラル・アルタイ語族」に属す。ペルシア語で「トルキスタン」を意味するトゥーランにちなんでトゥーラン語族とも呼ばれる。
1909年以降、トルコ人は「青年トルコ人」として知られる革命運動を先頭に汎トゥーラン運動を展開した。そこから1910年にはハンガリー・トゥーラン協会、1920年にはハンガリー・トゥーラン同盟が設立された。日本語や朝鮮語もトゥーラン語族に属すると考える学者もいる。そのため、日本では1921年に全国トゥーラン同盟が、1930年代初頭には日本トゥーラン協会が設立された。中央アジアにトゥーラン族の起源を求めるこれらの動きを、ハウスホーファーが知っていたことは間違いない。「トゥーレ」協会が中央アジアにアーリア人種の起源「トゥーレ」を探求していたのも、これとよく合致している。彼のチベット文化への関心は、アーリア人種とトゥーラン人種の共通の起源を見つけ出すこと、そして仙人が持つヴリルの力を得るための鍵として、秘境チベットに重点を置いていたのだ。
アーネンエルベ内で、チベットへ関心を持っていたのはハウスホーファーだけではない。彼はスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンと親しい仲だった。ヘディンは1893年、1899-1902年、1905-1908年、1927-1930年にモンゴルを探検した。その偉業を讃え、ナチスを率いるヒトラーは彼を1936年のベルリン・オリンピックの開会演説に招いた。ヘディンはスウェーデンで親ナチス派の出版活動に従事し、1939年から1943年にかけて、スウェーデンはドイツに数多くの外交使節団を派遣した。
1937年、ヒムラーはアーネンエルベをSS(ドイツ親衛隊、保護隊)付属の公式組織とし、ミュンヘンのルートヴィヒ・マクシミリアン大学サンスクリット学科長ワルター・ヴュスト教授を新所長に任命した。アーネンエルベにはチベット研究所が開設されていたが、1943年にスヴェン・ヘディン研究所に改称された。
ナチスのチベット遠征
ドイツの狩猟家であり生物学者であったエルンスト・シェーファーは、1931年から1932年と1934年から1936年の2回、スポーツと動物学的研究のためにチベット探検に参加した。1938年から1939年にかけてはアーネンエルベがスポンサーとなり、チベット政府の正式な招きで3回目の探検隊(1938年~1939年)を率いた。この訪問は、チベットと日本との交流が再開された時期と重なった。招聘の理由として考えられるのは、チベット政府がイギリスや中国に対する中和剤として、日本やドイツの同盟国との友好関係を保持したかったことにある。こうしてチベット政府は、1939年のラサでの新年(ロサール)祝賀行事でドイツ遠征隊を公式に歓迎することとなった。
『白い紗のスカーフの祭典: 聖地ラサへのチベット調査隊』(1950年)には、エルンスト・シェーファーの遠征中の体験が書かれている。祭りの間に行われたネチュンの託宣によると、「ドイツ人は甘い贈物や言葉を持って近づいてきたが、チベットはこれに注意せよ」と警告があったと報告している。「ドイツの指導者は龍族のようだ。親日派の元チベット軍総帥ツァロンは、この予言に対する警戒心を和らげようと努力していた。どうやら彼はこの警告についてもっと多くの詳細を聞いていたが、そのことを明かす権限がなかったらしい。チベット指導者は、イギリスとドイツが戦争することでチベットに厄災が降りかからないか心配し、毎日祈っていたという。どちらの国でも、善良な人々が同じように祈っていたということを知っておくべきだろう。ラサ滞在中、シェーファーは指導者と頻繁に会い、良好な関係を築いた。
現地を訪れたドイツ人は、チベットとの友好関係に強い関心を見せた。しかし、彼らの思惑はチベット人のそれとは少し違っていた。シェーファー探検隊のメンバーの一人に、人種研究を担当する人類学者ブルーノ・ベガーがいた。H.F.K.ギュンターとともに『アジアのインド・ドイツ人における北方人種(原題: Die nordische Rasse bei den Indogermanen Asiens)』を著したベガーは、ギュンターの中央アジアとチベットにおける「北方人種」説に賛同していた。1937年、彼は東チベットの調査プロジェクトを提案し、シェーファー探検隊とともにチベット人の人種的特徴を科学的に調査する計画を立てた。途中のチベットとシッキムで、ベガーは300人のチベット人とシッキム人の頭蓋骨を測定し、その他の身体的特徴や身体痕を調べた。彼は、チベット人はモンゴル人種とヨーロッパ人種の中間的な位置にあり、ヨーロッパ人種的要素は他国の人種の間でも、特に「貴族階級」の人間に顕著に現れていると結論づけた。
リヒャルト・グレーヴ著『生命への情熱と排外主義」-第三帝国における民族学(原題: Lebenslust und Fremdenfurcht) 』(1995年)に掲載された「SS-アーネルエルベにおけるチベット研究」の章によると、ベガーは第三帝国が勝利した暁には、チベット人に重要な役割が与えられるという。チベット人はドイツと日本の庇護のもと、汎モンゴル連合において主要同盟民族としての重要な役割を果たすことができるだろう。ベガーはまた、もっとチベット人を測定するために更なる研究を推奨したが、それ以上のチベットへの探検は行われることは無かった。
チベットへのオカルト遠征とされるもの
『ロンギヌスの槍』(1973年)の著者トレヴァ・レヴンズクロフトなどの、戦後になってからのナチズムと秘教に関する研究では、ハウスホーファーがトゥーレ協会を使って1926年から1943年まで毎年チベット探検隊が派遣されていたという。その目的は、ヒマラヤの地下に隠された地下都市、シャンバラ(アガルタ)に住むアーリア人祖先との接触だった。地下世界にはヴリルと呼ばれる不思議な力の秘密があり、それを手に入れてアーリア人種を全人類の主君とすべく、彼らは裏で活動を進めていた。いくつかの説によれば、シャンバラ人はいかなる援助も拒否した一方で、アガルタ人は同意したという。また、1929年以降、チベット人の密教徒たちがドイツを訪れ、ロッジを始めたとも言われている。彼らは「緑門(グリーンメン)」としてだけ知られている。緑門は、日本の秘密結社である緑龍会とも繋がっており、そこをハウホーファーの仲介により、ナチスの大義を秘儀を用いて加担したとされている。いずれにせよ、ヒムラーはこのようなチベットやアガルタ的な秘教に魅せられ、1935年にアーネンエルベを設立するに至ったのである。
もっとも、ヒムラーがアーネンエルベの設立者というよりも、1937年にSSに組み込まれたという方が正しい。ところでレヴンズクロフトの著述には疑わしい点がいくつかある。その一つが、アガルタがナチスの目的を全面的に支持していたという主張だ。1922年、ポーランドの科学者フェルディナンド・オッセンドフスキーは、モンゴル旅行記『動物、人、神々』を出版した。その中で、ゴビ砂漠の地下に「アガールティ」という地底王国について話をしている。また、将来その強力な力を持つ地底人たちが地表に現れ、世界を災難から救うのだという。オッセンドフスキーの著書のドイツ語訳『Tiere, Menschen und Götter』は1923年に出版され、ドイツ人たちからも人気を博した。しかし、スヴェン・ヘディンは1925年に『オッセンドフスキーと真実』を出版し、ポーランド人科学者の主張を論破した。それによると、オッセンドフスキーは1886年のサン=ティーヴ・ダルヴェードルの小説『ヨーロッパにおけるインドの使命』からアガールティのアイデアを盗用し、自分の聞いた話としてドイツの大衆にアピールしていると非難した。ヘディンは元々アーネンエルベに強い影響力を持っていたので、アーネンエルベがわざわざ伝説のシャンバラとアガルタを新たに見つけるために特別に探検隊を派遣したり、特にアガルタに支援を乞いに派遣隊を送っていたとは考えにくい。