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スタンダードの詞は広くて深い。

【1989年にVIP通信でスタートした連載を原文のまま掲載】

 10代の頃の僕は、バリバリのビートルズ少年だった。ある本の中で、J・レノンの「ジャズは嫌いだ」という発言を読んで、「そうか、音楽やるにはジャズなんて知らなくてもいいんだ」と思い込んでいる単純なヤツでもあった。

 実際その通りで、ジャズとは直接の関わりなしに、ずっと音楽をやってきたわけだが、ここにきて、ジャズクラブに通うは、ジャズのCDは増えるは、自分でも予想外の音楽遍歴ぶりである。ましてや、自分がジャズボーカルなんて聴くようになるとは夢にも思わなかった。

 奥にジャズの女性ボーカルななんてダミ声ばかりで、どこに違いがあるんだろうと思っていたのだ(ダミ声とハスキーの違いはいまだによくわからないけど)。

 今でも、それほど浸りきって聴いているわけではないけれど、彼女らが取りあげる曲、つまりスタンダードと呼ばれる曲たちには敬意を払っているつもりだ。

 それも、特に詞が気になる。

 もちろん、歌詞とメロディとは切っても切り離せない関係だから、単独で考えるものではない。

 しかし、最近は新しい曲を聴いても、どうも歌詞ばかりが気になってしまうのだ。英語の響きと意味の織りなす布地の手触りみたいなものが、少しずつわかりかけてきたから、よけいい気になるのかもしれない。もっと深く知りたいと思う。

 たしかに「英語は耳ざわりがいいから」とか「雰囲気に浸れれば、それでいい」とかいう時代は終わってしまったと思う。バイリンガルな連中が増えれば、英語は英語のまま理解されるようになる。意味がわかって当然という感じになっていくだろう。

 ただ、今のように音楽がすべてBGM的に聴かれ、カーステレオがメインになってきたりすると、歌詞そのものはどれだけの力を持つのだろうか。

 そんなふうに考えると、むしろよけいにスタンダードの歌詞は興味深い。

 現代の歌の詞が失いかけているものが、そこにはあるような気がする。

 たしかに、スタンダードの中には相当古いものもあるから、時代背景も今とはずいぶん違っていたりする。

 しかし、悲しみやよろこび、せつなさ、といった感情自体は昔とさほど変わっていない。いや、全然といってもいい。いいことか悪いことか感情の面では、それほど人間は進歩していないのだ。

 たとえば、不幸とひと口にいってもいろんな不幸がある。株で失敗した不幸もあれば、親が結婚を許さない不幸もあるだろう。しかし、それは普遍的な不幸ではおそらくない。その中にある後悔のせつなさや焦燥感が普遍的なわけである。スタンダードになりえた曲の中には、そういった基本的な感情にシンクロし、さらにそれを包み込むような包容力がある。

 ただ、よろこびや悲しみという基本的感情自体にも幅があったり、色があったりするのではないかと僕は思っている。音楽を聴く方にもイマジネーションが充分になければ、いくらスタンダードの素晴らしい歌詞でも、暖房器具の解説書みたいに、暖かさを表現してはいるには違いないが、ちっとも暖まりはしない言葉の羅列、になるのだろう。

 そして、最もそういったイマジネーションを必要とするのはシンガーかもしれない、とふと思う。感性のチューニングの幅が必要なのだ。それはきっと、どれだけいろんな感情を経験してきたかによるのかもしれない。

 詞を理解するというのは、言葉の意味がわかるということではない。いかにその世界を広く感じるか、だと思う。つまり、楽しみというのはその人の感性によって無限だということでもある。

 楽しみ方が中途半端だと、本当に欲しいものを見わけることができなくなる。そういうふるいが個人個人にないから、世の中にも良い物悪い物が混然としてしまうのじゃないだろうか。そんなことまで考えてしまう。

 英語の歌詞に接するたび、自分の英語力の不足を感じてしまうが、それは別問題として、感性の弾力と幅をつちかうために、新しいことをたくさんやることの方が大切だと思っている。同じひとつのものでも数倍楽しめるようになるだろう。

 サラ・ボーンとビリー・ホリデイ、時代背景も境遇もまったく異なったふたりの歌を交互に聴いてみて、いろんなことを感じた。この先、何年か後同じ歌(スタンダード)に触れた時に、さらにたくさんのことを感じられるだろうか。

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