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透明であること

【1989年に「ヴァンテーヌ」で連載されたフォトエッセイを原文のまま掲載】

 透明になりたい、と思ったことはないだろうか。

 子どもの頃、H・G・ウェルズの小説「透明人間」をもとに制作されたテレビシリーズを毎週楽しみにしていたものだった。主人公が服や帽子をスルスルと脱いでいくと、最後にサングラスだけが空中に浮かぶ。子どもだった僕はどきどきしながら、そんな場面に見入った。透明人間になれたらいいだろうな、とも思った。もしも自分が透明人間になれたら、という刺激的な想像が、僕を興奮させた。

 入ってはいけない所に入り込み、してはいけないことをする、そんな無限の自由を得られるのじゃないかと思っていたに違いない。

 しかし、実際透明人間になったら、困ることはないのだろうか。ずっと透明人間として生活することは果たして可能なのだろうか。

 H・F・セイントという人が書いた「透明人間の告白」という冒険小説では、そんな透明人間の不便さを計り知ることができる。物語の舞台は現代のニューヨーク。ある日突然、服ごと透明になってしまったエリート証券マンが主人公だ。

 のんびりした時代ならともかく、今の都市を中心とする世の中はとにかく透明人間には不便すぎるに違いない。まず、高度に発達した情報社会で、姿を消したまま怪しまれずに生きていくことは不可能だ。莫大な金と権力の庇護の中に身を隠すか、さもなくば、逃げ続ける生活を強いられるだろう。

 実際外を出歩くことだってままならない。見えない人に注意を払う人なんていないからだ。

 たとえばこうだ。人ごみの中では足を踏まれ放題。階段からは、急いでかけ下りて来る人に突き落とされそうになる。横断歩道を青信号で渡っていても、左折して来た車にひかれそうになる。公衆便所では後ろからいきなり知らないオジさんにオシッコをかけられそうになる…という具合。

 そういうことを考えると、実は、顔に極彩色の看板を掲げるような生き方のほうが、世の中を渡っていきやすいのではないだろうか。そんなことまで思ってしまう。少なくとも、まともに他人とつきあおうとしたら、透明人間でい続けるわけにはいかない。見えないものは認められない、それが、世の中の傾向なのだろう。

 そんな不便さをはかりにかけたら、見られる人間、つまり普通の人間の方がいい、と僕は素直に思う。透明人間は空想で終わらせるべきなのだ。

 しかし、それでも透明になりたい、と心から願ったことはないだろうか。

 たとえば、僕自身、子どもの時に何度か思った。それはテレビドラマのような甘い空想の時間ではない。両親の喧嘩の声が壁ごしに聞こえたりする時だ。罵り合いの言葉が持つ負のエネルギーは、むしろまわりの人間を多く傷つける。僕の両親はそんなことさえ気がつかなかったのかもしれない。子どもの僕は隣室でフトンをかぶり、さらに耳を塞いだ。それでも罵声は聞こえてくる。僕は、そんなものを受け止めてしまう。自分という形のあるものが忌まわしくてたまらなくなった。何もかも素通りしてくれ。僕なんか見えなくなってしまえばいいのに、と心から思った。

 今から思えば、それは強烈な自己否定だったのかもしれない。「透明人間の告白」の主人公ニックが幽霊にまちがえられたように、自己否定(極端にいえば死)と透明であることは似ている、とも考えられる。

 そういえば、幽霊も天使も普段は人間の眼に見えない。

 ヴィム・ヴェンダースの映画の中の天使の役目は、とにかく「見る」ということだった。「見られる」ということを排除して「見る」。これが透明人間や天使の視線だ。ありのままのものを見る。本当の姿を見る。それは「見られてしまう」人間にとっては難しい技である。

 たとえば、自分の存在を消し去ることのできるカメラマンは一流だとも言われる。僕もカメラを手にする時に何度も感じたことがあるが、「ここで自分の存在を意識させたくない。この在るがままの状態を収めたい」と思う瞬間がある。被写体とカメラマンとの関係が明確な写真も魅力的だが、時々、これは天使が撮ったんじゃないだろうか、と思ってしまうほど素敵な写真に出会うことがある。

 きっとその写真を撮った人の眼は「見る」ということに関して卓抜した才能を持っているのだと思う。しかし、それは好奇心だけのギラギラした眼とは決定的に違うはずだ。うまく言えないが、もっと自然で、透徹したもののような気がするのだ。まさしく天使の視線のような……。

 ヴィム・ヴェンダースの天使たちがみていたのも、好奇などというものを通りこして、美しさと悲しさの交錯する、とてつもない現実だった。しかしその「見ること」を捨てて、天使ダミエルは地上に降りてしまうのだ。人間に恋をしたのがその理由だったが、それは、存在感への切実な欲求、と言いかえてもいいだろう。

 僕だってそうだが、いつも自分を確かめていたいし、自分の存在を感じていたいと思うのだ。

 それでは、透明であることと、存在感は永遠に相いれないものなのか。

「瞑想ヨガ」の教室に何度か通ったことがある。それは、呼吸法とポーズの組み合わせによって、精神のリラックスと均衡を取りもどそうというものだ。ヨガというもの自体は自分の肉体を徹底的に観察することによって、身体の隅々に自分の意識を通す、ということが基本になっているようだ。少量の運動だが、終了後は実にさっぱりとした気分になる。身体の中のよどんだものが排除され、いくぶん自分の透明度が増したのではないかと思うほどだ。自分の身体の中の透明感というのは、案外そんなものなのだろう。自分を徹底的に見る、そして知る、ということで可能になるのだ。意識と身体がぴたりと一致した時、等身大の自分を感じることができるような気がする。透明感のある人、というのは、そういう人なのかもしれない。世の中の皮肉や建て前に汚されず、自分を卑下せず尊大にもならず、そのままの大きさで生きている人。静かに見えても生命力にあふれている。むしろそんな人こそが、今はきわだって見えやしないだろうか。

 時々、自分の中のよどんだ部分がたまらなく嫌になる時がある。しかし、その時はすでに、自分を見ることをやめてしまっているのかもしれないのだ。耳をすましたり、目をこらしたりする時間が毎日の中で削りとられていく時、僕は知らないうちに透明なものに憧れている。

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