人と知り合うって、素敵なことだ。
【1989年にVIP通信でスタートした連載を原文のまま掲載】
内気な人間だから友だちができない、などという話をたまに聞くけれど、それは違う、と僕は思う。
内気な人間だからこそ、友だちが出来るのだ。正しくいうならこうだ。内気な人というのは、友だちになれない人とはつきあわない。すなわち、しっかりとした信頼関係なしには、人とつきあえないということである。逆に考えれば、その場しのぎ的で中途半端なつきあいはしないから、むしろいい友だちができやすい、ともいえる。
我ながら情けなくなるほど内向的な人間である、この僕が言うのだからまちがいはない。(半分、自分をなぐさめているけれど……)。
しかし、そこまでの信頼関係ができる以前、たとえば初対面の時などは本当に困りものある。僕の場合、緊張してしまうと、よけいに口数が少なくなる。なんとかしなくては、と思うとよけい何から話していいかわからなくなる。僕が困るのだから、相手はもっと困るだろうなと思うのだが、この性格ばかりは長年の間、変えられずにいる。
つねづね僕がうらやましく思う友人(女性ですが)がいて、彼女の場合、すぐに人とうちとけてしまうという貴重な才能を持っている。なにかしら話題をみつけ、しかもそれを空虚に終わらせはしない。全身の熱をこめて話し、なにかしら言葉やイメージのきらめきをその場に残すことができる。別れる時には互いの連絡先を交換し、1週間後には電話で再会を約束している、という僕からみたら、まるで離れ業のようなことをやってのける。
しかし、なによりも彼女をみていて尊敬するのは、相手の魅力、素敵なものを一瞬にしてみわける力のようなものを持っていることだ。つまり、人と知り合うには、自分の輝きも必要だけれど、相手の中にどれだけの輝きをみつけるか、が重要なのではないだろうかと思うのだ。
彼女のおかげで、僕が知り合えた人も数多い。俳優で映画監督でもある利重剛クンもそのひとりだ。
あるコンサートの楽屋口、人ごみの中をすっと彼女は抜け出し、急にひとりの青年に話しかけた。「利重さんですよね」
僕は全然知らなかったのだが、彼は「近頃なぜかチャールストン」という映画の主演をはじめとしてテレビドラマなどにもいくつか出演している俳優で、その数少ない出演回数の中で格別印象的で魅力あふれる個性をみせていた人だったのだ。
その時、そばにいた僕はあっけにとられるだけだったが、彼女はどんなに彼の演技がよかったかを熱をこめて話し出した。利重さんも照れながらも、いま初めての監督作品を撮影中だということをなど、少しずつ自分のことを話し始めたのだ。なにひとつ照れる必要もないはずの僕は、見事にひと言もしゃべれぬままだった。ただ、試写室での再会を約束して、その時は別れた。
そして半年後、映画「ザジ」の試写会で再び僕と彼女は利重クンに会うことができたのだ。
試写会場だった新橋の映画会社近くの喫茶店で、僕はやっと少しずつ彼と言葉をかわすことができた。しかし、すでに彼の作品を観ただけでも、充分に彼の魅力を感じることはできていたといっていいい。
「いまは住所不定。持ちものはリュックひとつで、あちこち泊まり歩いています。いわば怖いもんなしの状態ですね」と彼は笑った。まだ26歳なのに、自分のやりたいことと嫌なことをしっかり見きわめている。そのいさぎよさと人なつっこい笑顔がとてもいいバランスだと思った。
これが、僕と利重クンの、同じ女の子を取り合ったり(もちろん口ばっかしだけれど)、一緒に忘年会を飲み歩いたりする、妙なつきあいの始まりだったわけだ。
で、その時に「あの映画はよかった」と利重クンがすすめてくれたのが「バグダット・カフェ」という不思議な映画だった。
さっそく観にいき、そのあとで僕はサントラ盤まで買った。夕暮れの風を切るブーメランの音。砂ぼこりが貼りついたような画面。オンボロのピアノを弾く少年。手品。そして「コーリング・ユー」という近年まれにみる美しい曲。いつまでも焼きついて離れないほど魅力的なシーンにあふれた映画だった。
ひとつの映画、ひとつの曲、ひとりの人間。まるで偶然のごとく出会っているかのように思われる。しかし、多分それらは皆つながっているのだ。そして、その一番もとの部分は自分の中にあるのだという気がする。それは自分というよりもきっと自分の信じている何かなのだろう。
その何かを通してしか、人と知り合うことはできないし、親しくもなれない。内気であろうとなかろうと、人を信頼するのは自分の中の何かを信頼することでもあるんだなと思う。
とすると、まだまだこの世の中には、素敵なものがたくさんあるのではないだろうか。芋ヅル式の楽しい毎日を思うとワクワクしてしまう。
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