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介護の現場の「平和」な1日?――國分功一郎『中動態の世界』を読んで➁

 ゴールデンウィークなので、実家に帰っている人も多いだろう。社会人になっても、両親や祖父母、年上の親戚の前では、いつまでたっても「子ども」扱いで、自分が「ケアされる」存在であることを実感する。そして面目を保つためなのか、申し訳程度に「ケアする」存在であろうと、ささやかなお土産を買って帰る(……考えすぎか)。

 学生時代で言えば、中学3年生から高校1年生、高校3年生から大学1年生、のような自分が「先輩」から「後輩」へと変わった時に、なんともいえない歯がゆさを感じないだろうか。今思えばあれも「ケアする」存在から「ケアされる」存在へと移り変わる戸惑いだったのだと思う。そして社会人、特に介護職という「ケアする」面が強い立場になってからは、家庭での「ケアされる」機会に伴う戸惑いがある。

 前々回は國分功一郎著『中動態の世界』から、「読書における中動態」について考えてみた。ざっと振り返ると、中動態とは「主語が過程の内にある」ことを指し、能動と受動という対立ではうまく捉え切れない現象や世界を理解する一助になる。そして完全な能動にはなりえない以上、行為の方向(能動か受動か)ではなく、行為の質の差で判断するべきである、というのが僕の理解である。

 さてここから「ケア」へと展開する上で、僕の仕事である「高齢者介護」を例にして考えてみたい。高齢者介護と言っても、訪問介護やデイサービス、施設など様々な形態があるものの、おそらくほとんどの事業所には「マニュアル」がある。例えば送迎はこの時間、食事は何時から、午前中は入浴介助、日勤者がこの時間にゴミ集め、何時から何時までが休憩、などである。

 要は、出勤してから退勤するまでの時間に、職員が最低限やるべき仕事が時間軸で文章化されている。ここで強調したいのは、マニュアルに書いてある仕事の主語は、すべて「職員」であるということだ。職員が迎えに行く、職員が食事の始まりを決める、職員が入浴介助をする、職員がゴミを集める、職員が休憩する、となる。

 もちろん新人にとって、仕事も介護もよくわからない状況において、時間に沿ってやるべきことが決まっているのは、非常にありがたい。僕もそうだった(自信を持って「過去形」にはできないが)。新人の最初の目標は、まずマニュアル通りに仕事を時間内に終わらせることになる。それが一人前になるという意味で期待されることでもあるし、目指すことでもある。

 しかし介護職員に本来求められるのは、介護を必要とする高齢者の自立した日常生活を支援すること、すなわち高齢者がどんな生活を送れるかが大事であるにもかかわらず、マニュアルで示されているのは「職員の1日の過ごし方」なのである。もちろん高齢者の生活をマニュアル化することはできないし、するべきではないが、マニュアル一辺倒の思考では、高齢者はいつまでも「ケアされる」存在でしかない。

 介護の現場では「申し送り」というものがある。例えば朝出勤した職員は、夜勤者から夜間の利用者の様子を聞き、夕方出勤した夜勤者は、日勤者から日中の利用者の様子を聞く。主には健康状態や排便状況などを伝えるのだが、ここでよく使われる表現として、「今日は平和でした」がある。これが何を意味するか、わかるだろうか。逆に「平和じゃない」時には、「○○さんが便失禁した」とか「△△さんがお風呂を嫌がって入れなかった」とか「◇◇さんが落ち着かなくて、帰ろうとした」などがある。

 もちろんこれらが大変なことはわかる。しかしここでは、「平和ではない=職員が苦労する=マニュアルを阻害する利用者」、「平和=職員が苦労しない=マニュアルを邪魔しない利用者」という、非常に身勝手な図式が出来上がる。それにここで言う「平和」とは、必ずしも利用者の生活の質が良いことを意味しておらず、たとえ一日中イスに座りっぱなしでも、傾眠しっぱなしでも、ほとんど会話していなくても、上記の「平和じゃない」ようなことが起きなければ、「平和」になってしまう。

 このことから言いたいのは、マニュアルは確かに仕事の基礎として大事であるものの、マニュアルを行うことが目的になってしまっては、すなわち職員が主語である「能動態としての〈ケアする〉」だけでは、介護の質は担保できないということである。

 次に、具体的な場面に転じて考えてみたい。中動態に絡めて食事介助や服薬介助については簡単に考察したことがあるので、今回は更衣介助を取り上げる。たとえば認知機能の低下によって、パジャマから洋服への更衣を正しく行えないかもしれない利用者がいるとする。すると「起床時に更衣の見守りと支援」が、職員のマニュアルや「ケアプラン」に加わることになる。

 さらに詳細まで仮定するならば、例えば朝の6時30分から40分までの10分間、居室でAさんが正しく更衣できるよう状況に応じて支援する、という場面だとしよう。たまにAさんはパジャマの上に洋服を着たり、どこに足を通すのか分からなかったりするとしよう。この場面を職員は「更衣介助」と捉える。Aさんを正しい更衣へと導くのである。

 この「更衣介助」という言葉の主語は、もちろん職員である。しかし実際に更衣するのは、すなわち更衣の主語はAさんである。この二つの主語が共存する10分間において、職員が「更衣介助=能動態としての〈ケアする〉」と捉えているならば、Aさんが正しく更衣することが一番の目的となり、要は「更衣させること」が目的となる。なので、例えばAさんが考える必要がないようにあれこれと指示することは正しいことで、もしそれができない、その通りにAさんが動かなければ、Aさんは更衣介助させてくれない「問題老人」となる。「平和じゃない」原因は、Aさんになる。

 この10分間の主語は、言うまでもなくAさんである。「Aさんが更衣する」という過程があり、それを補助的に支える立場として職員が存在するはずである。つまりこの10分間を「更衣介助」という「能動態としての〈ケアする〉」で捉えると、「着替えさせる職員」と「着替えさせられるAさん」という関係になり、介護の本来の目的である「自立支援」とは程遠く、一歩間違えば〈権力関係〉に陥る恐れがある。

 そこで必要なのが、介護を「中動態」として捉えることなのだろう。この場面で言えば、10分間という「更衣」の時間(過程)をAさんと職員でともに作り上げる、という意識だろうか。どうしても「更衣介助」が目的になれば、正しく着替えられないAさんにイライラしたり、待てなかったりすると思う。言葉にするのが難しいが、Aさんが着替えるという時間に職員はお邪魔して、とはいえ着替えの主役にならず、いつでも正しい更衣のための手助けをできる存在でいる、と言えばいいだろうか。

 介護ではよく「待つ」ことが推奨されるが、考えるにそもそもその考え方もおかしいのかもしれない。職員が「待つ」ならば、利用者は「待たせる」ことになる。まるで時間がかかる利用者に責任を押し付けているかのようである。これは「申し送り」の話で書いたように、職員のマニュアルを邪魔する存在として利用者を捉えてしまっている。

 そんなこと言っても、実際の現場では、できることの時間が限られているし、人員も少ない。マニュアルで決められたことが時間内に終わらなければ、利用者にしわ寄せがいくこともあるだろうし、サービス残業などもってのほかだ。介護保険サービスを利用しているのだから、利用者が多少我慢することも必要なことだ、といえるかもしれない。

 今回言いたいことは、介護職員はいま自分たちが何をしているか、何のための時間なのか、よく考えながら仕事をするべきだろうということだ。例えば、毎日のように施設から帰ろうとする利用者がいれば大変だろう。ただその状況に慣れてしまえば、その利用者を「平和」を揺るがす存在として認識してしまう。帰ろうとする利用者にとっては、毎日繰り返していようが、その時その時が切なる思いを体現した瞬間であるし、その行動の背景を想像して、できることをやっていくのが介護職員に求められる仕事だろう。

 介護職員はどうしても自分たちを「ケアする」存在として、そのアイデンティティを確立しすぎているのではないか。身体的にも外見的にも圧倒的に「弱者」として存在する高齢者を前に、まるで「権力者」のように驕っている部分がないだろうか。ケアやサービスの質の向上がより一層求められるなかで、介護職員はいま一度自分たちの仕事を、「介護とは何か」「ケアとは何か」考えて、話し合う必要があるのではないだろうか。やがてそれは介護職員のみならず、いまを生きる私たちにとって、「ケア」を問い直す必要性へと帰結していくように思う。

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