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れいわ新選組を追う

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#社会運動

お飾りの「オーナー制」「フレンズ制」導入は欺瞞 -れいわの代表独裁制は変わらず-

れいわ新選組(以下れいわと略)は3月末に党組織に「オーナー制」と「フレンズ制」を導入すると発表した。やっと党の支持者や賛同者に党員制やパートナー制という形態で党運営に参加する道を開いたのか、つまりこれまでの「代表独裁制」から党内民主主義実現のために一歩踏み出したかと期待してオフィシャルサイトの案内を見たが、まったくの期待はずれだった。「オーナー」と「フレンズ」は、ともに党代表選挙の投票権を持つだけで、それ以外に党の運営に参加する権限は与えられていない。一般的な党組織に見られる

衆院選に突入したれいわの現在

昨年の8月に、優生思想をめぐる大西つねき氏の除名問題に端を発したれいわ新選組の混乱と打開策について、「規約改正 -山本私党脱却いまだ見えず-」をポストしたあと、すでに一年以上経過したが、この間、何もコメントしていなかった。上記のポストで、れいわ最大の課題は「代表独裁制」から脱却できるかどうかだと問題提起したが、残念ながらこの問題はいまだ克服されていない。党規約の改正はこの衆院選の後に予定されているはずであるが、改正で「代表独裁制」に手が着けられるかどうかは定かではない。このよ

「認識論メモ」:ヴィトゲンシュタインとメイヤスー

ヴィトゲンシュタインの最晩年のノート『確実性の問題』では、数学や論理学など、プラトンからカントに至るまで、人間世界とは別の次元に存在するとされてきたものも、人間が行動し、経験して得た結果を(世界内の)現実と照合し、繰り返し一致したものが確かな命題として蓄積され、やがて固定化し、計算したり、論理的に考えたりする際に自明のこととして参照されるに至ったものだとされる。 これは、彼が最初『論理哲学論考』で考えていたように論理とは世界の写像である、つまり世界も論理的構造を持っていると

れいわ新選組の規約改正 -山本私党脱却いまだ見えず-

れいわ新選組は、今月12日の「れいわ地下二階B2サンデー」で代表山本太郎が言及していた課題の一つである「規約改正」を総会を開催しておこなったと22日に公表した。これは二段にかけておこなう規約改正作業の一段目の改正ということになる(二段目は衆議院選挙後を予定とのこと)。 筆者は支持者の立場から、過去記事『れいわ新選組の岐路 -山本私党からの脱却-』で、れいわが「山本私党」のレベルから脱却するために最低限必要な規約案(組織改革案)を提案していたが、結論から言えば、残念ながら今回

れいわ新選組の岐路 -山本私党からの脱却-

8月12日、「れいわ地下二階B2サンデー』での代表山本太郎氏の発言を受けて昨日14日『れいわ新選組は立ち直れるか?』をポストし、「れいわはまだ立ち直れるし、貧困と差別に苦しむ人びとを代弁できる党として今後も支持する価値は十分にある」と結論を結んだ。しかし、何かが抜けている感じが残ったので、ここで再考し、補足しておきたい。 が、その前にエピソードを一つ。大西氏の発言をめぐる混乱時に私は連続してnoteに関連記事をポストし、ツイッターでもその告知をしたが、そのうちの一本であった

れいわ新選組は立ち直れるか?

以下、=====で挟まれた部分は、上記のタイトルで今月8月10日に書きはじめていたものである。れいわ新選組(以下れいわ)が現在直面している課題を明らかにし、それに正面から取り組まなければ、早晩ジリ貧になるという危機感から、書き始めたのだが、一昨日の12日夜、youtube番組『れいわ地下二階:B2サンデー』という番組で、ほぼ2時間にわたって代表山本太郎氏が事前に寄せられた質問に答えるというかたちで、私が書こうとしていたことの多くに触れていた。そこでその応答を踏まえて書く必要が

個人と集合的な力

ポピュリズムがなぜ肯定されるべきかといえば、国家権力の専横を阻止したり、社会を変革できるのは、名もなき人びとの集合的な力によってだけであると考えるからである。国民代表機関だとされる議会だけでは(さらには選挙だけでも)それは不可能である。しかし前ポスト『なぜ左派ポピュリズムか』で触れたように、人びとの集合的な力が右に振れる時、ファシズムを生み出すことも歴史が示している。 ファシズムとは一言でいえば、ある理想社会の実現を掲げながら、最後は人間の大量殺戮を合理化する政治体制だとい

単独の結節点としてのノード

すこし抽象的なポストが続いたので、いったいどんな前提で書いているのかよく分からないというご批判があるかも知れない。そこでもう7年ほど前(2013年)にまとめたものになってしまうが「ノード連合のために」とタイトルを打ったメモがあるので、ここに再録しておきたい。 ----------------------------------------------------------------------------- まず何よりも、言葉が紡ぎだす物語(観念世界)をカッコに入れる

たたかいの意味

人びとのたたかいは、何としてでも守るべきものや、どうしても許してはならないものをめぐって起るものだ。だから人びとが立ち上がり、敵に対峙する時に、たたかいの勝敗はその念頭にはないだろう。 しかし、たたかいが共感を呼び、参加する人びとの輪が広がり、それとともにさらに敵との攻防が激しさを増してくると、どうしてもある局面で、これからのたたかいの展望が問題になってくる。とりわけ犠牲者が出はじめる局面では。 時には敵が譲歩し、その結果、一時的に成果を手にすることがある。一時的な勝利。

れいわ新撰組の候補者選び

れいわ新撰組の次期衆院選に向けた候補者公募、昨年末で応募者数が300名を超えていたが、現時点で400名を超えているとのこと。かねてから予定候補者数は100〜130名とアナウンスされていたが、この数字はやはり瞠目すべきものであり、れいわの登場に触発され、自分も政治の世界にと思う人たちがいかに多いかを物語るものだ。もちろんその中には、れいわの勢いに便乗し、議員になることをメシの種にしようとするただの機会主義者も含まれているだろうが。 しかし問題は、候補者選びが山本太郎氏を含むれ

柄谷行人『世界共和国』について -否定神学的に

概念とか観念は人間を含む世界の一部を構成しているのは確かだが、決して現実の総体をとらえることはできない。こういう立場から、ある概念や観念を考えるとき、その論理に矛盾する事実を提示したり、あるいはそれが誤っている可能性を指摘し、その基盤を揺るがすことで検討することしかできないだろう。「そうではない」また「そうでない可能性がある」と主張することである観念(理論)を批判する方法は一般に「否定神学」と呼ばれるが、ここでもこの方法を取ることになる。 2006年に発刊されたこの著作を全

正義 ーデリダの幽霊とゾンビー

これまで、国家の意味について、優性思想、人間の選別、「人にあらざるもの」の創出と追放隔離、強制収容所、総力戦、絶滅装置、怪物、戦争機械などの概念を使って考えてきたが、ここで、幽霊とゾンビを追加しておきたい。(以下は2017年4月にサイト「ノード連合」に掲載したもので、タイトルのみ変更) ジャック・デリダは、言語、法とならんで、国家も、原初的に「他者」を外部に暴力的に排除することで成り立つものであり、その排除はたえず反復されているととらえる。同時に、排除は決して完全に成功する

絶滅装置としての国家

近代国家は、優生思想によって人間を選別し、国家にとって無価値な人間を法外に追放し、最終的には強制収容所内で殺戮する衝動をその成立とともに内包していることを前ポスト『新反動主義と優生思想』で指摘した。 またその選別は、エリートと大衆に収斂し、大衆はエリートのイデオロギーへの同一化を強いられ、このこともエリートを大衆の殺戮へと誘惑する動因となることも指摘した。 人間の同一化がなぜ死を呼び寄せるのかを再度繰り返せば、「他者の同一化」に向う欲望は、死への欲望(タナトス)であり、あ

「新反動主義」と優生思想

近代以前の身分制社会のほうが、社会はより安定し、発展する、つまり少数のエリートが支配する社会のほうが望ましい、また巨大な国民国家より複数の小都市国家の並立がより機能的だと、カーティス・ヤーヴェンらの「新反動主義」者たちは主張する。背景には、リベラルデモクラシーに対する絶望、企業の力が国境を越え、これまでの国民国家が桎梏になっているという認識があるのだろう。その一人ピーター・ティールは「民主主義と自由が結びつくとはもはや信じない」と語る。 資本主義の発展は、人間を均一化に追い