【ライブ・レビュー】アンダーグラウンド・シーンの現場から⑦ 蒼波花音 (アルト・サックス)、遠藤ふみ (ピアノ)、Sean Colum (ギター)

2023年7月31日   水道橋「Ftarri  水道橋店」
『CD「Kanon Aonami Composed Works: Performed by Sean Colum, Kanon Aonami and Fumi Endo」(meenna-954) 発売記念』

youtubeで動画を見たがよくわからなかった謎の音楽を聴きに行く。この日は定員20名の客席がすべて埋まった。このような難解な音楽に人が集まるのも驚きだが、悪いことではない。蒼波花音という変わった名前だが普通の若い女性、バンドリーダーらしいそのサックス奏者のやや緊張ぎみのトークで始まった。この店は独特の雰囲気で、ライブハウスではなく飲み物の販売もないが、それ以上に客層に特色があり、ステージが始まる前は仲間内で歓談したりしているが、いざ演奏が始まるとしんと静まり返り、曲?が終わっても拍手の一つもない。いわば玄人筋の客ぞろいなのだろうか、ライブというより発表会のようだ。

肝心の演奏だが、まずギタリストがギターに触れた瞬間に、非常にうまいことが伝わってくる。彼はモールス信号のように一つの同じ音を、音色や強弱や長さを微妙に変えながら、執拗に何度も引き続ける。それに応じてピアノもポーンと一つの音を放つ、そしてギターの応答を黙って受け止めつつ、また違う一つの音を投げ返す。まさにモールス信号のような演奏。次第に鍵盤に向かってうなだれていくようなピアニストの姿勢にある種のムードがある。

しばらくギターとピアノの応答が続く。ギターはそこから次第に音をずらしつつ、次の流れへつなげていこうというそぶりが見えるが、ピアノを流れをぷつっと切るような単音のみを発する。また、減衰していくその音を、きわめて微細なレベルで揺らしたり、上下や横に拡散させたり、逆にしりすぼみにさせたり、途中で断ち切ったり、ということを鍵盤やペダルなどのわずかな操作で行う。観客にもかろうじて聴こえる程度の小さな音なので、行っているの「だろう」、という印象。どちらのプレイヤーも繊細な音の操作に長けているのだが、その方向性は異なり、ギタリストがあくまで「音楽性」の一環として様々な音を使っている、つまり自分の出す音を完全に把握して意図的にコントロールしており、何らかの既存のイディオムを参照した「表現」を意識して演奏している(たとえば武満徹のギターの現代曲などを想起してほしい)のに対して、ピアニストは演奏というよりピアノという装置を用いて、初期の電子音楽のように響きの実験を行っているように見える。かといって複雑な不協和音を駆使するのでもなく、用いる音は非常にシンプルなもの。ピアノを鍵盤ではなく金属打楽器の共鳴装置として操作し、残響を空間に拡散させる、その拡散の仕方をも操作しようというような(そして完全には操作しないで最後は放散させる)、極端に静的なプレイだ。そしてそれはあくまでもギタリストの投げかけた音に対する返答として「読める」演奏になっている、と感じる。つまりコミュニケーションとしての演奏ということを強く意識させる。それは余白の多さのせいでもあり、短歌の返歌を思わせるようなやり取りともいえる。
 
そこへサックス奏者が加わってどのような展開になるか。サックスは動画で聴いたよりも音が太い。とはいえ楽器を鳴らしきるというようなものではまったくなく、かすれるような音を細々と絞り出すという作風。口元から空気が漏れるような「ぷしゅぷしゅ-」という音を盛大に出しながら演奏するので、かなり気になる。通常の音楽ならやったらダメなことなので、意図的なものだろう。サックスの音と同時に鳴らして二重奏のような効果を狙っているのかとも思ったが、そこまでテクニカルにコントロールされている風でもない。ただロングトーンの時には両者が合わさって共鳴のようなことを起こすので、何らかの狙いがあることは確かだ。だが、この特殊奏法も決して演奏の主軸に据えられているわけではなく、ある種の場面転換のために用いられている程度。

このようなか細くくすんだ音色でのフリーフォーム演奏では、先行するサックス奏者として齋藤直子がいるが、蒼波はそれに比べると音の動きが少なく、また案外とオーソドックスなジャズのフレージングをためらわずに用いている。とはいってもチャーリー・パーカーやリー・コニッツのような鋭角的なアドリブを畳み込むようなものではなく、練習でメソッドを探りながらゆっくり吹いているような感じ。そこは既存のフリージャズにはない方法ではある。そして、そこに音楽として訴えかけてくるものがあるかどうかという観点からは、それらがどこまで作曲されているものか即興なのかということは、大した問題にならない。私としては、ちょっと、ECMからアルバムを出しているメッテ・ヘンリエッテ(Mette Henriette)のようなものを期待していたのだが、それはいささか早計だったようだ。
 
サックスとギターの間ではある程度の絡み合いによって、時折音楽らしきものが成立しかかるのだが、ピアノはその流れに乗らず、ふいに歩みを立ち止まらせるような冷ややかなレスポンスを差しはさみつつ、ポツネンとした壁のように佇んでいる。そのたびに無音が訪れ、また仕切り直しての探り合いが続く。とぎれとぎれの演奏以上に聴こえてくるのは、冷房機のブウウンとうなる音、戸外を走り去る救急車のサイレン・・。ステージ全体の印象としては、古い映画音楽などで「疑惑」や「不安」を表すために使われているある種の音楽、それはそもそも現代音楽を応用したものなのだが、それに似た印象をあたえる。もちろん、スコアを再現しているだけの映画音楽に対して、即興をベースにしているため、単なる「ムード」の表現ではなく、音の活きた揺らぎや相互作用は感じられるものの、あまりにクールな演奏であり、うごめくような生命力は感じられない。
 
それにしても遠藤のスタンスの特異さは際立っている。そのコンセプトはソロ以外で実現可能なのか、疑問だ。会場も、無音室とか大聖堂のような空間でないと無理かもしれない。そもそも遠藤が目指しているのはいわゆるピアノ演奏ではなく、音楽ですらないのかもしれない。名人芸的なことからは遠く離れている。それは音のピンホールカメラとか感光写真、あるいはよく知らないが「香道」みたいなことか。これは何なのだろう・・? まったくジャズではないのだが、現代音楽というほど無機質でコンセプチュアルでもない。直感的に言うと、関与するのはやはり何かしらエモーショナルなものというか、記憶の断片だろう。別のジャンルを例にとると、舞踏とか、近藤聡乃の漫画「いつものはなし」の中にある不確かな記憶がもたらすシュールなエピソードの読後感に近いかもしれない。
 
それから、出てきた音に向き合うプリミティブな姿勢。ピアノに一度でも触れたことがある者なら誰でも、初めてピアノに触れた時の驚きの記憶を持っているはずだし、そこから受けたイマジネーションは曰く言い難い茫洋としたものだろう。音楽について「耳が肥える」というのは、その原初の体験から遠ざかることでもある。奏者は「いい音」を獲得するために「悪い音」や「雑音」を切り捨てていくわけだが、もし音に「良い・悪い」という基準がなければ、一つ一つの音を固有の「それそのもの」として扱うことで、理論的にはすべての種類の音を選択肢に入れることが可能となる。それは音楽の概念の拡張というのとも少し違う。当て推量だが、遠藤のピアノは音と演奏者との関係を見直し、演奏者が音を「行使する」というあり方を置き換えようとしているのかもしれない。今回のライブで他の二人とのスタンスの違いとして感じられたのはそこではないか。

繊細な音を使う奏者は世間に多くいるが、それらはたいてい、幽玄の美というところへ行き着くし、音の細部にまで意思を行き渡らせる行為は、一種のアニミズムのような感覚を呼び起こす。遠藤にはそのような音と奏者との一体感は感じられず、ピアノというそのような微細な行為にはあまりに不向きな「装置」の存在が浮かび上がるばかりだ。彼女の到達点が未だ「それ」未満なのか、あるいは別の方向性を持っているのかは不明だが、一つ言えるのは、沈黙や静寂を際立たせることがその演奏の重要な構成要素であることだ。出した音がどう次へ連なっていくかより、どう消えていくか、そして消えていったものが(演奏者自身を含めた)聴き手に取って何なのか、あるいは「何だったのか」に興味があるように見える。
 
ところで沈黙や静寂というのは人間の作り出した一つの観念であって、実際はあらゆる場所が生物や気象現象の発する音に満ちている。また有名なジョン・ケージの体験のように、無音室にいてさえ、おのれの人体そのものが発する音響が鳴り響いているわけで、真の無音は存在しえない。したがって静寂とは「普段は聞こえていないものが聞こえてくる」ことであり、沈黙とは音に対する人間の態度を表す言葉なのだ。たとえば、水面に投じた小石が作り出した波紋が暫時ののち消えうせたあと、その波紋に思いを巡らせることは可能だろうか。その波は全体の揺らぎの中に吸い取られて存続しているともいえるし、跡形もなく消えてしまったともいえる。遠藤の演奏には、意図してのものかどうか定かではないが、そのような問いのきっかけが含まれていることは確かだ。


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