五十嵐あさか「チェロと声の音楽会~音みる夜 Vol.9~ チェロと小さいギター、声と歌、声帯模写による自作曲公演」感想

2024年5月16日(木) 会場:ルーテル市ヶ谷ホール

これはいわゆる「チェロ・リサイタル」ではない。歌の比率がかなり大きい。手ならしにモンテヴェルディを援用した小品、そして以前からのオリジナル曲を二曲。そのあとにカザルスの有名な「鳥の歌」を普通と異なる編曲で、カタルーニャの歌詞を歌いながら弾くという試みだった。荘重で重厚なクラシックの権化のように見なされがちなこの曲が、歌が入ると急に軽やかに、日常的になる。マイクを用いず、自然かつ「鳴りすぎない」ホールの響きは、ややもすると地味で迫力を欠く。つまり、聴衆を圧倒しない。その音響の在り方は、奇抜なタイトルのレパートリーと相まって、「芸術作品」という体裁をとらないように選ばれているように感じる。

たとえば、「この世でもっとも嫌な音」だという、コンサートホールの客席で紙くずやビニール袋をこする音を片手で立てながら、演奏する。あるいは「練習曲」と称して、わざと技術的にやりにくくしてある難しい曲を、前説でたっぷりユーモアを交えて解説しながら、でも懸命に弾く。さらには小型のギターで伴奏しての「CMソング」と称する短い歌。曲間のトークには笑いが絶えない。ここはコンサートホールなのに、まるでフォークソングのステージのようだ。クラシックの「枠」を飛び出した五十嵐が南米アルゼンチンの体験で得た音楽との向き合い方、それは生演奏を「特別なこと」ではなく身近なものとして、しかし飲食店などでたれ流される「BGM」としてでもなく、何げなく、しかし静かに耳を傾けてもらいたい。そういうことかと思う。

だから客席の集中力の度合いは「傾聴しなくてはならない」という権威によってではなく、音楽そのものの魅力にかかってくる。ルーマニアの民謡から着想した曲や、瞽女(ごぜ)の小説や映画からインスパイアされたという、三味線を思わせる奏法や、ホーミーを交えた声や犬の鳴きまねを取り入れたサウンドドラマ仕立ての曲など、五十嵐の興味はフォークロア的な方向へ向いているようだ。しかしもちろん民俗音楽そのものではなく、クラシックの素養を元にそれを解釈し再構成したものとなる。正規の音楽教育を受けているはずの五十嵐の奏でる音はいかんともしがたく洗練されており、逆に言えば「芸能」の泥臭い魅力はないわけであり、かといって「クラシックが芸能を取り入れた」というものでもなく、いろいろな要素を独自に解釈し、自己の内部で熟成し再統合したバランスの上にある。

軽妙なトークや半分ふざけてるようにも思える曲、何より五十嵐自身のくだけたキャラクターにより、どことなくざわついて弛緩した雰囲気の客席の中でも、とりわけ一人、演奏が始まってもやたらとペットボトルのふたを開け閉めしたり、ひそかに携帯で写真を撮ったりしていた客がいた。その無作法な客の動きが、「鳥に聞け」というその瞽女の曲で、ぴたりと止まったのである。そして最後を締めくくる「トルコの絵」という曲は、静寂の中で鮮やかに奏で終えられた。これは演劇で伴奏するために何度も練習したというだけあり、抜かりなく練磨されていた。

ただ、前述した「鳥に聞け」を除けば、代表的なレパートリーの大部分があいかわらず十年前のファースト・アルバムとセカンドから用いられており、それらの吹込みはおそらく海外生活の集大成であり、創造力の一つのピークにあった時期のものと思われるのだが、帰国以降、作曲家としての新境地を切り開くまでにはまだ至っていないと言える。クラシックの伝統が育んだ技法を活かしながら、ユーモアをてこにその権威性や堅苦しさをまぬがれつつ、かといって「前衛」のような仰々しい理論や大上段に振りかぶった力みにもとらわれず、日本や各国の伝統芸能にあるエッセンスを取り入れながら、軽やかにさりげなく「自分の音楽」を作り上げる。これはなかなか骨の折れる命題だ。

日本の音楽風土は南米のそれのように豊かではないだろうし、ステージと客席の関係も枠にはまってしまっている。音楽家はインスパイアーされるものを求めて移動する必要もあるし、作品を仕上げるのに集中する時間もいる。創造性を目指す音楽家の置かれた環境は厳しい。それだけに毎年一度開催しているこのリサイタルは一年の中で重要なキーストーンと位置付けられていると思われる。「五十嵐あさかの世界」というものを今後どの方向へ求めていくのか、次の一手に期待がかかる内容だった。


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