メモの虫干し
つい先日iPad を買いまして、諸々の同期をし終えてさぁiPadライフを楽しむぞ!と思ったところでメモ帳を開いたところでびっくり。
なんだこのメモたち……わけがわからない……というメモがずらっと同期されていました。普段はiPhoneで新規メモを作成して、かいたことに満足してまた次の新規メモへ……
これはカビが生える前に一度どっかに吐き出して、わたしの記憶や誰かの心に波紋を呼んだりしよう!と思い公開します!
※事前注意です。
自分が書いたことなのか、どなたかが書かれたものをコピーしただけなのかさえ覚えていません。なるべく、自分が書いたっぽいことのみ公開していますが、もしこの文章、考えのわたしの!という方がいらっしゃいましたらご一報ください。記事の非公開等の対応をいたします。
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次の予定を配慮せずに行動できる。自分の感情をコントロールしてない。
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複雑さと共に暮らす、読み始めたんですが、最初の日本語版への序文がなぜだか、すっごい心に沁みました…
しかし強調したい点は、我々は同じである、ということにある。世界中どこであれ、複雑さは世界の現実なのである。
これなんかいいです…
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社会と哲学の間にいる?
人間らしさ?
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自分のルーツはどこなんだろう。
静岡にいても居心地が悪かった?
東京に来ても居心地がわるかった?
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幅を広げる方法
気づいたら、サービスデザインをしたくなる
自分ごと化のデザイン
チャンネルを変えることに対する葛藤をどう打ち破るのか
変える瞬間に立ち会う
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責任ってなんだ?
わたし以外の人とうごくときにつくるもの
じゃあわたしだけのこの部屋に満ちている責任はなんなんだ?
わたしを生かさなければならない責任
おやのために
もし責任をつくらずに他人とうごくとどうなるんだ?
一緒にコメつくる
一緒ってなんだ
共にってなんだ
わたしはおやのために生きてるのか?
おやがしんだら?
ともだちはこいびとは
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プラットフォームを行き来する方法
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人が関わってくるとプラットフォームが作られていく
提供をする側がプラットフォームの奴隷になっていく
セクターを超えても安心できる仕組みがあったらいいなで作ってるんですって
お互いが提供しあっていくうちにサービスが生まれていくコモディファイなサービスからの脱却ですか、、、、
未来に対する投資と、自分が楽しいと思えることをすることには
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今って、A社の小野寺さんってだけじゃん。社会?開かれた?自分が。
それが最近ムズムズするのわたしだけ?
今までは、B大学の小野寺さんはもちろん、Cサークルの小野寺さん、小野寺家の長女の小野寺さん、いっぱい小野寺さんおったのに急にひとりの小野寺さんになって、なんか寂しい?というか、苦しいというか
先生より
日本人はほとんど昭和まで「イエ」「田畑」の属性が苗字となり、戸籍となり、一面的なアイデンティティでやってきたけど、皆さんは「どこにでもいることができるワタシ」として、複数のイデオロギーや文化に所属しながら豊かな自己を形成できる世代になったと思う(国家〜パスポートはあるけど)。
その点「カイシャ」というのは、旧体制の遺物として、将来は「田畑」と同じ、継ぐ人いないのにJAが守ってるみたいな扱いになるように思う。
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意識共有なんてできるわけがないと思います。
管理からの一方的な発信になると思っていて
その発信をするツールがほげほげという立ち位置なのかなと。
でもほげほげという構造化された、文字と画像や表、グラフと、文書データ集まったのバインダーでどこまで情報が鮮度のいいまま、こぼれずに伝わるかってのがポイントになってくるのかなぁと思ってました。
そのこぼれる要素の大一頭が熱量とか?と思って…やっぱりそれを可視化は無理ですよねぇ…
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線をつなぐ、今の延長線上の世界
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過去の体験でサイクルは回せる
現場は求めない
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コンセプトって、なんですかね?w
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繰り返し変わって行く
自分の町との共通、相違点を見つけることで知らない町からの転換?
嬉しい、
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