コメント欄に、その言葉はあった。①
静かな部屋の隅で、私は深く息を吸い込んだ。
夕暮れ時の柔らかな光が、薄いカーテン越しに差し込んでいる。
スマートフォンの画面が、暗い部屋で青白く光を放っていた。
時計は午後6時を指していた。
「今日も一曲、アップロードしよう」
自分の声が少し震えているのが分かった。
大学の講義が終わって帰宅してから、いつもこの場所に座る。
小さな一人暮らしのアパートの、6畳一間の部屋。
ベッドの横に置いた簡易デスクが、私の「録音スタジオ」だ。
この半年間、私は自分を変えようと必死だった。
大人しすぎる性格を少しでも改善したくて、カバー曲を歌ってYouTubeにアップロードすることにした。
最初は家族にも言えなかった。
「サキ、何か最近変わったわね」
先週、久しぶりに電話で話した母にそう言われた。
変わりたいと思って始めたことなのに、その言葉に少し戸惑いを感じた。
でも、毎週コツコツと続けていくうちに、少しずつ自信らしきものが芽生えてきた。
「サキ、今日もがんばろう」
鏡に映る自分は、セミロングのブラウンの髪をかき上げながら、か細い声で自分を励ましている。
160センチの体格は決して目立つわけではない。
45キロの体重も、むしろ華奢な印象を与えるだけ。
大学の講義でも、いつも後ろの方の席を選んでしまう。
自己主張が苦手で、グループディスカッションでは黙ってしまうことも多い。
でも、歌っているときだけは違った。
歌っているときの私は、本当の私になれる気がしていた。
YouTubeの再生回数は決して多くない。
でも、コメント欄には時々、温かい言葉があった。
「素敵な歌声ですね」
「次も楽しみにしています」
その言葉の一つ一つが、私の小さな勇気を支えてくれていた。
SNSで収入を得られたら、それは夢のようだと思った。
まだ視聴回数は少なくても、いつか必ず。
そんな淡い期待を胸に、私は歌い続けた。
大学での昼休み、一人でイヤホンを付けながら、次の曲の練習をする。
誰もいない教室で、小さな声で歌詞を口ずさむ。
家に帰る電車の中でも、ずっと音源を聴いている。
どうしたら、もっと上手く歌えるだろう。
どうしたら、もっと自分らしく表現できるだろう。
そんなことばかり考えていた。
でも、あの日は違った。
新しくアップロードした動画のコメント欄に、その言葉はあった。
「好きな曲が台無し」
たった一行のコメント。
でも、その言葉は氷の刃となって、私の心臓を貫いた。
スマートフォンを握る手が震えている。
画面が涙で滲んで見えなくなる。
「なんで...」
声にならない言葉が、喉の奥でつまった。
目立ってたわけでもない。
誰かに迷惑をかけたわけでもない。
ただ、自分の好きな曲を、精一杯歌っただけなのに。
胸の奥が、どろどろと溶けていくような感覚。
スマートフォンの画面を消すことすらできない。
その日の夜は、布団の中で震えていた。
窓の外から聞こえる車の音も、
隣の部屋から漏れてくるテレビの音も、
全てが遠く感じられた。
まるで世界から切り離されたような感覚。
握りつぶされそうな気持ちと戦いながら、私は目を閉じた。
でも、闇の中でもあのコメントの文字が、
まぶたの裏で光って見えた。
「好きな曲が台無し」
その言葉が、私の中で何度も何度も反響する。
スマートフォンの通知音が鳴るたびに、
心臓が早くなる。
新しいコメントが怖くて、
でも気になって仕方がない。
この矛盾した感情に、胸が締め付けられる。
翌朝、目覚めても体が重かった。
鏡に映る自分は、いつもより青白く見えた。
大学に行く準備をしながら、
動画を削除しようかと何度も考えた。
でも、決断できない。
削除すれば、この痛みから逃れられるかもしれない。
でも、それは今までの自分の努力を否定することにも思えた。
結局、スマートフォンをカバンの奥深くにしまい込んで、
家を出た。
この日から、私の日常が少しずつ変わり始めることになる。
講義中、教授の声が遠くに聞こえる。
周りの学生たちの話し声も、
笑い声も、
全てが違う世界の出来事のように感じられた。
ノートを開いても、ペンが動かない。
白い紙の上で、インクが滲むように、
私の中で何かが溶けていくような感覚。
この先、どうすればいいのだろう。
もう二度と歌えないかもしれない。
そんな不安が、静かに心の中で広がっていった。
教室の窓から見える空は、いつもと変わらず青かった。
でも、その青さが今日は妙に遠く感じられた。