トリックスターとアウトサイダー
トリックスター
ギリシャ神話にヘルメスと言う神様がいて、後にローマ神話でメルクリウスやマーキュリーと呼ばれて商売などの神様になったりする。
ヘルメスは、一方でトリックスターと呼ばれる。
トリックスターと言うのは、神話や民話において、世界を混乱させるが、その後、新たな知識や文化をもたらして、世界を再活性化させるような存在のことである。
ヘルメスにおいては、その神話において、誕生するや否やいたずらをして、世界を混乱させるが、その解決において新たな文化をもたらすことで、世界を豊かにしたということになっている。
アポロン神が竪琴を持つ姿で描かれているのも、そのときにヘルメスの作ったものを渡したと言う伝承のためである。
日本の神話においても、因幡(いなば)の白兎などがその役割を担っている。
こうしたトリックスターは世界各地の神話に必ずと言ってよいほどに存在する。
また、芸術においても、シェイクスピアの戯曲において、道化役としてその存在を見ることができる。
シェイクスピアは、悲劇も喜劇も多く書き残したが、その違い、その分かれ目は、道化がいるかいないかによるのではないかとさえ思う。
行き詰った世界に対して、道化と言うトリックスターが登場する。
道化はそれまでの秩序などお構いなしであるから、好き勝手にふるまい、場を混乱させる。
混乱した世界は、やがて復興し、新たな秩序を形成して甦(よみがえ)る。
淀(よど)んだ世界の秩序に生きる人々では思いもつかなかった方法で、世界を活性化させてしまう。本人が自覚しているようには見えない。
そのような構成を持つのが喜劇と言える。
道化はまた、『何一つ社会的なものを得ることがないが、たとえ王様に対してであっても対等にものを言えることを許されている存在』と言える。
エンターテイメントは、トリックスターがいる。
シェイクスピアを読んでいれば、物語のパターンは学べるわけであるが、たとえば、ドラゴンボールのヤジロベエなどもトリックスターであるように見える。
主人公たちのやり方では突破できない方法を知っているのである。
アウトサイダー
これと似たような存在としてアウトサイダーと言う存在がある。
インサイドに対するアウトサイドである。
アウトサイダーに関しては、コリン・ウイルソンの『アウトサイダー』という本に詳しい。
ここでは、カフカやカミュ、ドストエフスキーなど、古今の芸術家の作品の登場人物のアウトサイダー性や、その周りに与える影響などが述べられている。
個人的な定義であるが、アウトサイダーと言うのは、ただの外れものと言うわけではなく、世界の境界ぎりぎりに立つ人、また、火口の淵に立って居るような人と考えている。
普通の人々なら帰ってこられなくなりそうな、外れてしまいそうな場で立って居られるような、そのような人なのである。
境界線上で踏みとどまるのが最も楽しく、最も意欲がわく。
あくまで世界の中で立って居ながら、内側に属しているわけではない人、そのような人がアウトサイダーである。
境目を歩いている者。
アウトサイダーは、既存の秩序を破壊する気はないが、その中にいる人々では見えないものが見える。
人々が当たり前すぎて気づかないものに気づき、人々とは違うルートを使って物事を解決する。
インサイドにいる人たちとは、求めているものも価値観も違う。
道化的サラリーマン
トリックスターでも道化でもアウトサイダーでも、このような存在は、実際の社会でも、芸術家や研究者などになるしかなさそうであるが、その性質を機能させれば、むしろ会社でも学校でも組織の中でおいて、その力を発揮することができそうである。
道化はその性質から言って、権威の重圧を気に掛けない。むしろ権威や秩序のある場の方が自由に動き、力量を発揮する。
かえって無秩序や荒野などでは力量を発揮できないだろう。
組織も一つの世界であり、秩序である。
それも組織ごとにまちまちな秩序をもっているが、内部の人々はそれが当たり前になってしまっている。
そこにアウトサイダーを入れれば、それまで気づかなかった新たな方法を見出することも可能ではないか。
そもそも道化というものはトップを極めようなどとは考えもしない。どうしても、やりたいことがあるのなら、別の存在に変身して現れる。
王様はすべてが自分のため。
道化はすべてが他人のため。
もう一昔前になるだろうか、美術雑誌でウィーンのアーティスト集団を紹介していたのを覚えている。
そのアーティストたちは、作品を作らない。
何をするかと言えば、組織や自治体に半年から一年ほど滞在して、アートの視点で組織を活性化するのだそうである。
道化は客(王様)のご機嫌取りだから相手をみてリアクションをしている。受けるか受けないか、曖昧(あいまい)でしかない他人の心を探り続けて混乱する。演技し続けなければならない人工の道化は、常に強いられている。意表を突いた、その実、虚しい原動(リアクション)を求められる。他人を見続け、自分は消える。
立っていられるのは、人間だけ。歩くのも人間だけ。牛や馬は、徘徊(はいかい)しているか、駆けているかに過ぎない。
シェイクスピアの道化のように権限はないけれど、たいていの発言は認められるという立場を会社でも組織でも作れば、収入をあまり気にしないタイプは生き易くなると思う。
村社会ではイノベーションは難しい。
人をおとしてまで自分の立場を固めようとする。そもそも「自分の立場を固めようとする」と言うのが村社会なのだから、進化が起きるはずがない。
お互いの得意なものを組み合わせて世界をよくしようとするのではなく、
ガラパゴス化も村社会。
見事な道化ジャンプ。井上ひさし
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