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【民俗学漫談】映画

映画と祭

映画ができてから、カーニバルの昂奮がなくなりました。

映画で昂奮するわけです。カーニバルよりも安全ですからね。

映画の形式は、演劇の舞台と同じですね。同じ構造を持っています。

演劇は、祭の再現ですから、映画もその構造を継承している以上は、昂奮させるわけですよ。

ただ、だんだん、映画が産業になり、見る側が消費者になってゆくにつれ、祭の昂奮とはかけ離れてゆきます。

映画は、演劇よりも、むしろ、テレビに影響を受け始めます。

ロングショットではなく、クロースアップの多用ですね。

一つの世界を示すというより、人を区別し、何が行われているのか、分かりやすくする手法ですね。

なんで、テレビは、クローズアップにしたかと言いますと、初期のテレビは、画面が小さく、画像も粗かった。

ロングショットにしたら、何が映っているのか、わからないんですよ。

映画と、テレビは出所が違うんですよ。

構造が違う以上、効果も違います。

テレビでは、祝祭の昂奮は生じようがない。

祭の昂奮はどこへゆく

この間見た広告で、サッカーの中継をスマートフォンでも見られる、と。

それで、一方には、選手がシュートを決めている写真が、一方では消費者がスマートフォンを片手に覗き込んでもう一方の手で、ガッツポーズをしている広告なんですがね。

これ、昂奮するんでしょうけど、祝祭の昂奮とは程遠いですよね。

むしろ、ゲームのクリアとか攻略した、レベルが上がった、せいぜい、合格通知を見た時の感情に近いと思います。

まあ、今や、旅行も登山も、ネットで見聞きして、それを攻略する気分で行くんでしょうが。クリアしたと。

個人的なクリアの問題、片付いた、と言うことであって、カタルシスとは別の次元です。

昔の浮世絵、北斎や広重の風景を描いたものですね。あれを見て、江戸の庶民は『行こう!』となるのです。明治になれは郵便制度ができて、やがて官製葉書だけではなく、絵葉書も許可されると、そこに描かれた風景を求めて旅行したくなるのです。書いてあるのは観光名所ですから、観光旅行ですね。

冒険旅行ではありません。噂でしかないような場所に、何の案内もなく行くのは冒険です。

観光は、示された場所に行くわけです。むしろ確認するために行く感じです。

『なるほど、見た通りのところだ、すばらしい』と。

私も自分で旅行してみましたが、まずネットで観光地を探すわけですよ。

『福島 観光』などとタイプして検索するわけです。

そうして、行きたいところ、行けそうなところ、を見出して、じゃあ行こうか、となるわけですよ。そうして行ってみて、あらかじめ見聞きした場所をたどるわけです。

『なるほど、なるほど』と。

帰ってきたときに感じていることは、むしろ『片付いた』という気分が最も近いと思います。一人旅ならなおさら。

まずネットで見た写真に惹かれて旅行に行くと思い、実際に行き、写真に収め、私ならnoteにupする。

個人がジャーナリストというか、営業というか、そういったものを義務でもないのに自らしているわけです。

で、少し前、少し前というのは、ざっと半世紀前ですが、そのころまでは、有名な観光地に行くのが観光旅行でした。

ところが1970年代に、国鉄が『ディスカバー・ジャパン』と銘打って、それまであまり知られていなかった場所でさえ、広告に引っ張りだし、国民に旅行を促すキャンペーンを始めました。

大阪万博後の旅行者確保のためのキャンペーンともいわれています。

そこでは、言い方はあれですが、それまでは『ただの田舎』であった場所を『観光地』としてイメージ変換を行ったのです。すごいですね。よう考えますわ。

広告のポスターは例によって若い女性が主人公です。その若い女性が、田舎を訪ねて、その田舎のイメージとしてのご老人などとともに写っていました。

そのイメージを大衆は受け入れる。そうして、無名の田舎に自ら赴くことがむしろおしゃれとさえ感じるようになりました。

広告によって、人々に新たな欲望を植え付けた一例ですね。ようやりますわ。

クローズアップ

話を映画に戻します。

構図の事で言えば、私は、昔、アニメをよく見ていたんですが、昔のアニメは、映画の構図をまねしていたと思います。映画が演劇をまねしていたように。今のアニメは、テレビのまねしていますね。クローズアップが多く、世界を示すというより、キャラクターを見せることが目的のようです。

スマートフォンなどの小さい画面で、キャラを見て、ストーリーを追う。そのストーリーもキャラを楽しむためにあるという。歌舞伎の手法ですね。

ただ、歌舞伎はクローズアップのことは頭にありません。クロースアップの手法が考え出されるのはカメラができてからですから、当たり前のことです。

歌舞伎をクローズアップの手法を用いて撮影すると違和感があります。

この間のオリンピックの開会式ですか、歌舞伎の型が演じられましたが、どこか違和感があったのは、テレビ番組の積もりで、つい、クローズアップにしてしまったからなんですよ。

歌舞伎は目と鼻の先で見るものではありません。

そこで、派手な化粧や衣装、大げさな表情や身振りを持って、観客を楽しませるわけです。

ところがねクローズアップの手法は近くで見ますから、離れてみるものに対して行うと大げさに思えてしまいます。

クローズアップの手法は、むしろドキュメンタリーにふさわしい。

そこでは自然な表情やしぐさが行われます。むしろプロではないからこそ、そうした演技ができないということもあり、そこでクローズアップにすると、真に迫るがごとき観を呈するわけです。見る者が勝手にその表情からそれなりの意味を見出すわけです。

教育されていますから。近代に入って複製技術が生まれて大衆が作られ、その大衆は同じものを見せられ続けていますから。

元来、クローズアップの手法を取り入れたのは革命ロシアですし。

その手法をナチスが模倣し戦時中の日本や、なんとイデオロギー的に対立するはずのアメリカさえ用いました。

大衆のいるところ、クローズアップの手法を用いた、プロパガンダは効果を上げるのです。

もちろんというべきか、戦後も広告業界は、なんともあっさりこの手法を取り入れてしまったのです。

人間は無意味に堪えられないんですよ。

無意味な行動に堪えられない。

無意味と思えるような行為を我慢してまでするのは先のことを考えるからです。

未来を考えることによって、現在の無意味を意味あるものに変換しようとするのです。

歴史を紐解けば、未来への心配りこそが現在の狂暴性を生み出すとさえ言えないでしょうか。

まず、未来のために今を我慢し続ければいら立ちます。人間。

そこでその苛立ちまぎれにさらに欲望を肥大化させてしまいます。

これ、一人だけではないので、欲望が肥大化すれば他人の肥大化した欲望とぶつかり合います。一見、他人のことも一応は考えているような者でも、行動の端々、発言の節々に他人を見下すような行為をナチュラルにするような者がいるので油断なりません。

恐らく、機会を探っているのではないでしょうか。誰に対してもフラットにできない、つまり謙虚さにかけている場合、目上や権力者にはへりくだるもののその分の鬱憤を晴らす機会を探っているとさえ思います。

前に、みうらじゅんが『皆で鼻息荒くして何かをしたがる行動が、地球にやさしくないんですよ』なとどいうようなことを言っていましたが。さすがの言葉の選び方ですよ。

鼻息荒くして、自分の個人的な理想をその時の状況を鑑みずに実現しようとしたり、人にアドバイスをする体で、自分の優越感や『ネタ』を探ろうとするような行為は、かつての侵略国家と思考的には変わりはないわけです。

鼻息が荒い奴はかわすしかないですね。冷静に観察すればかなり言動不一致ということがわかります。

学生なども、あまり経験がないところで、壇上に立っているだけで信用してしまいがちですが、その人間の言動が一致しているか、『なんか、この人鼻息荒くない?』みたいに感ずることはまったく構わないわけです。

クローズアップの手法を用いて作られたものでも、それが冷静になれば意味などない、その表情やしぐさ、果ては行動に意味などない、人間がその時々で理由や意味など考えて行動しているわけはないということは、まともな頭の持ち主ならばわかるものですが、映像や写真というもので記録されてしまうと、何かいきなりリアリティを持ち、そこに意味を感じずにはすまないわけです。

ストーリーを追う

こどもの頃から漫画やテレビばかり見ているとね、って、私の事なんですがね、自分の外にある物語を自分の人生の手本にしてしまう。

どういうことかと言うと、自分の人生の現実にある状況、それに合わせて、行動してゆくのではなく、外にある、フィクションですよ、誰かが作ったな過ぎない物語ですよ。

その自分とは関係のない場で生まれたフィクションを以て、自分の人生に口出しするんですよ。自分で。

危ない行為ですよね。

合っているか、間違っているか、合っていることばかり探していれば、こうなりますよね。

だから私がこの映画でしようとしたのは、映画のなかで《アルジェリア》という言葉を発するということ、しかもそれを、自分が今いる場所で、自分自身のやり方で発するということです。―ゴダール

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