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【民俗学漫談】鳥居*縁日
神社に参拝に行く。
まず、鳥居をくぐりますね。
鳥居は、通る、ではなく、くぐると言います。
表札でも、ただの門でもないんですよ。鳥居は。
ぐぐるんです。別の空間にダイブする感覚があります。
お祓いは、もともとイザナギノミコトが黄泉(よみ:あの世のこと)の国から戻ってきたときに、川に潜って禊をした。
その神話の再現だと漫談で言いました。
で、その禊のあとで、重要な神である太陽神や月の神、もう一柱、神が生まれた。ちなみに、神様は、一人二人ではなくて、一柱(ひとはしら)二柱と数えます。
数えてしまう時点で、信仰も畏敬の念も薄らいでいるんですけどね。「紀元前」を制定した時点で、キリストへの畏敬が薄らいていたように。
で、もう一柱、スサノオノミコトと呼ばれている神なのですが、どこを統治しているのかも定かでなく。海とかあの世とか説はありますが。
神というよりも、英雄譚の主人公的なところがあります。あっちゃこっちゃいくんですよ。それで、最後はめでたしめでたし。この辺は昔話の始まりですよね。
で、イザナギノミコトですが、黄泉の国に何をしに行ったかと言うと、亡くなった妻に会いに行ったんですね。
で、会えたんですよ、そこは神ですから。でも、会えたはいいが、妻の方は既に別世界でご飯を食べてしまった。
ご飯を食べる。どこで?
ご飯を食べるというのは、その共同体に属する行為だと、前に漫談で言いましたが、あの世で食べてしまったんですね。
人間、悲しい時でも、お腹がすきますからね。いや、人間じゃないんですけどね。神なので、いっそう人間らしいところもあります。
で、食べちゃった。あの世の食卓で。
その瞬間、妻であったイザナミノミコトは、あの世の存在で確定ですよ。
それで、なんというか、見た目もね、あの世の存在になってしまっていたんですよ。この辺がギリシャ神話のオルフェウスとは違いますね。あっちは、人ですからね。
驚愕したイザナギノミコト、夫の方ですね。逃げ帰ってくる。
しかし、何と、追手が来るんですよ。仕向けたのは妻なんですけどね。すでに手下がいるのはさすが神ですね。
夫の方は必死で逃げる。黄泉比良坂(よもつひらざか)と言われる三途の川的な坂を逃げ、魔術的なことをして、追手を振り切ります。
這う這うの体でかえってきた夫は、黄泉の国との境目に大きな岩を置いたんですね。
これが鳥居の初めなんじゃないかと思います。内容としては。
鳥居はくぐる、と言ったのは、イザナギノミコトが重要な神様を産んだのは、禊そのものと言うよりも、あの世にもぐって、帰ってきた。それをよみがえり。と言います。
黄泉から帰ってきたから、よみがえり。
そうして、再生した力で、新たに産んだのではないでしょうか。
参拝という行為は、一度別の世界にもぐって、再び浮上する。それを水平上で行なっているんですね。
鳥居をくぐり、参道を玉砂利を踏みながら進むにつれ、日常から離れてゆく。クライマックスの神殿に着いて、また戻ってくる。すでに、魂がよみがえっている。そういう段取りです。
祭と縁日は違う。
お祭りには、縁日が出ていますね。
縁日は、もともと「縁のある日」の事です。何に縁がある日かと言えば、神社やお寺の言い伝え、つまり始まりの時に縁のある日という事ですね。
今では、縁日といえば屋台ですね。
この縁日は、寺社における観光の一環としてあるんですけど、今や、商店街でもやっていますね。「夜店市」とか言って。夏休みに。
商店街は長い。一本の道です。そこで行われるお祭りは、どういう構造なのか。一本の道を通り抜ければ、人は、よみがえるはず。しかし、何もない商店街onlyの「お祭り」は、飲み食いして、ぶらぶらして、どうなるというのか。立ち尽くすのか。黄昏の商店街の端に立ち尽くす人々。大人から子供、じいさんばあさんに至るまで。焼きそばの器を片手に。フランクフルトの棒を片手に。そういう光景。落としどころのないイベントとして。
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